執念の反面調査
いよいよ後半戦が始まった。
年が明けると、東上野署法人課税の各部門は新年早々に着手する調査先の準備調査を行い、1月の中旬から一斉に調査に出かけた。多楠と淡路も青砥署の研修が終了すると同時に、調査に出始めた。
1月から6月の後半戦は、所得税の確定申告期間が2~3月にあり、5月にはゴールデンウィークがある。所得税の確定申告という繁忙期は、首都圏周辺の税務署では猫の手も借りたいほどの忙しさになるが、東上野署の管内人口は東京局の中でも下から2番目と少ないことから、さほど忙しくはない。
しかし、所得税の確定申告期間と3月決算会社の申告書作成で忙しい5月のゴールデンウィーク明けは、年間で税理士が最も忙しい時期であるため、調査のできる期間が限られており、調査日程の確保にけっこう苦労するのだ。
昨年末に田村から話のあったとおり、下期からは調査件数の処理重視で、多楠も淡路も原則一人で調査に行くことになった。
田村から指令を受けた7件のうち、真っ先に多楠が選んだのが次の会社である。
- 会社名:有限会社 丸誠紙業
- 納税地:台東区上野4丁目(アメ横)
- 社長:丸野 誠(78歳)
- 専務:丸野 繁(45歳)、社長誠の娘婿
- 業種:事務用品の業務用小売
- 決算:9月決算
- 売上:最終期 1億9,000万円
- 申告所得:最終期 130万円の黒字
- 税理士:三村一成
1月下旬、丸誠紙業の調査に一人着手する多楠。
朝、出かける前に新田が“準備調査の資料を見せろ”というので見せたものの、具体的な指示は何もなかった。出かける多楠の背中を心配そうに見つめる田村、24歳になる自分の長男と多楠の姿が重なってしまい、どうしても感情移入してしまうようだ。田村は内心で叫んだ。
(多楠君頑張れ! 君には将来がある! 部門の皆が君を応援しているよ!
だけど本音を言うと、チョット心配なんだけど・・・)
多楠は予定どおり10時に丸誠紙業の前に到着すると、躊躇せず会社事務所兼店舗に入った。
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1階の店舗には人がいない。『御用の方は2階事務室へ』という案内板を頼りに、狭くて古い建物の階段を2階に上がると、天井の低い息が詰まりそうな事務室に専務の丸野と税理士の三村が座っていた。天井がやたら低いのは、この事務所がJR山手線と京浜東北線の高架下にあるからだ。
多楠は心に期すものがあったが、なぜか落ち着いていた。
昨年、関東貿易商会に一人で調査に行き不正を見つけたこと、そして何より半年間、新田の調査を間近に見ながらみっちり鍛えられたこともあってか、自分でも不思議なくらい気負いがなく、平常心であった。
世間話も早々に、丸野から事業概況を聴き出す多楠、この会社はアメ横の事業者向けに、事務用品、時にコピー機などの事務機器を販売している会社だという。前回の調査は5年前、期末の締め後の請求売上が漏れていたので、100万円程度の修正申告で終了していた。
多楠には特に注目した点があった。
それは、専務の丸野が、社長誠の娘明日香の夫、つまり婿養子である、ということだ。
多楠は先日の青砥署での研修会で聞いた、岩井上席の言葉を思い出していた。
調査のベテランで査察にも在籍していたことがあるという、ラグビー選手のように体格の良い岩井上席はこう言った。
「すべてのケースに当てはまるかはわかりませんが、私の経験則からして、社長や専務が婿養子の場合、不正が行われていることが意外に多い。
会社からの役員報酬はそのまま奥さんに入ってしまうからか、遊び金や自分が自由に使えるお金がほしくて義父や奥さんの目を盗んで不正を行い、会社のお金を誤魔化すケースが多いようです。
実は私が横浜西署の特調部門の時に行った会社でも・・・」
さらに岩井は、研修の締めくくりに、熱く、こう語った。
「皆さんは調査1年目です。何もかもわからなくて当然、だが人から指示されて動いているようではダメです。何が不審なのか、矛盾しているのか、自分の五感、そしてときには第六感さえも使って、証拠をつかむように心がける。常日ごろ自らの感性を磨く努力をし、おかしいと思ったら自分を信じて即行動に起こすことです。」
「こういった心がけで常に調査をした人が、一人前の調査官になるのです。優秀な調査官になる道なのです。税務調査に近道も王道もありません。頭で考えているだけではダメです。地道に努力し、想定し、試行錯誤しながら動き回って靴底を減らすしかないのです。」
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丸野が娘婿であると聞いた瞬間、多楠は自分の腕に鳥肌が立つのを覚えた。
“なんていうタイミングだ! 岩井上席から聞いたばかりの『娘婿のパターン』じゃないか!”
その腕をワイシャツの上から手で擦りながら、半信半疑ながら多楠は考え
“もし丸野専務が不正をしているとしたら、何を誤魔化しているだろう・・・。専務の役員報酬は年間720万円と、役員としては決して多い方じゃない。”
丸野からの概況を聴きながら、多楠は頭の片隅で、様々なシミュレーションを行っていた。
未熟な多楠の思い込みかもしれないが、不正が出そうなときに調査官が感じると言われている“何とも言えない、ゾクゾクするような、くすぐったいような感覚”が多楠を襲っていた。
丸野紙業は売上と仕入以外に、大きな取引はない。仕入先は事務機の大手メーカーであったり、かなりの規模と思われる事務用品の卸売会社が主であり、誤魔化すなら売上しかないはずだ。
“新年早々の事案で面白そうなのに当たったようだ。”
はやる気持ちを抑え、帳簿や証拠書類の何を確認すべきか、多楠の頭の中は早くもフル回転を始めていた。
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店舗はほとんど無人、呼び鈴が鳴れば2階から社員が下りていくといった具合で、店の売上はあまりなさそうだ。話によると、丸野専務が店に出るケースはまずないとのこと。
丸野専務は今の会社に入る十数年前、中堅の総合商社で営業をしていた。商社を辞め丸誠紙業に入社した当初は営業部長として勤務、次に専務となり、5年前に義父の社長が病気で体調を崩してからは、いつ社長に就任してもおかしくない状況にあると三村税理士は言う。
多楠は想定した。
娘婿である丸野が誤魔化すとしたら売上、しかも自分が営業でまわっている会社の売上ではないだろうか。しかし、午前中の概況聴取から昼食を挟んでの帳簿調査の間、立ち会っている丸野の素振りを見ても、常に落ち着き払った態度で温厚そうな性格、岩井上席が言った経験則が当たっているのか、信じがたい気持ちの方が強かった。
しかし、それでは調査にならない。多楠はExcelで管理されている売上帳3期分の確認作業に入った。
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電車が数分おきに頭上を通過するたび、思わず耳をふさぎたくなるほどの騒音の中、多楠はひたすら帳簿調査に没頭した。Excel表を見る限り、不審な箇所は特に見当たらない。
売上決済のほとんどが振込であり、アメ横商店街の魚屋、肉屋などの現金商売の店は、頑なに昔ながらの現金決済を行っているところもある。多楠は関東貿易商会の時と同じように領収証の控と計上されている売上をチェックしたが、柳の下にドジョウは二匹いなかった。
さすがに今回、売上の漏れは見当たらない。
丸野はますます落ち着き払っている。
税理士の三村は忙しいのか、盛んに携帯に電話が入ってきて、その都度1階まで降り、通りに出てはクライアントらしき相手と話をしているようであった。50歳前くらい、紳士的で調査にも協力的である。
調査1日目の午後と2日目のほとんどを売上の確認に費やした多楠であったが、売上計上漏れは一切出てこなかった。
その間も、元商社の営業マンであった専務は、終始調査に協力的であった。
岩井上席が言っていたように、“すべてのケースに当てはまるかはわかりません”の例外の事案なのか、2日目の夕方、相変わらず落ち着いて表情ひとつ変えない専務の顔を見ながら多楠は思った。いつの間にか事務所内には、近くの飲み屋で焼いている焼き鳥の臭いが漂っていた。
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2日目の調査が終わり、3年間の売上を管理しているexcel表の写しをもらい受け、多楠は署に戻ると、田村に事案の報告をした。
「特に何がおかしいというわけではないのですが、専務の役員報酬が年間720万円と会社の規模に比して少なく、商社マン出身の専務は自分のテリトリーの得意先の売上を誤魔化しているように思えてならないのですが・・・。
明日から月末で調査の予約が入っていないので、丸誠紙業の得意先何件かに反面調査を行いたいのですが、よろしいでしょうか。」
多楠の意識の高さ、成長ぶりに思わず顔がほころぶ田村
「多楠君がそういうなら、ぜひやってみなさい。ただし、何件か反面調査に行って見込みがないようだったら、直ちに撤収すること。いいね。」
田村が意外とあっさり反面調査に了承したことを受け、喜ぶ多楠
「ありがとうございます!ではさっそく明日から反面調査に行ってきます!」
田村
「そうそう、あと、反面に行くにしても、新田調査官に相談して反面先を選んだらどうかな。」
「わかりました」とうなずき、多楠は後ろを振り向いたが、さっきまでいた新田は席を外していなかった。
多楠は思う。
“どうせ新田さんに相談しても何も指示が出るわけではない。このまま新田さんには黙ったまま、明日、反面調査に行こう。そうだ、それが良い!”
翌日から多楠は、丸誠紙業の得意先に無予告の反面調査を実施した。
最初はセオリーどおり、ある程度規模が大きいところから反面に着手、張り切って行った反面初日、2日目と多楠は精力的に岩井上席いわく“靴底が減るくらい”アメ横を中心に動き回ったが、1件の売上漏れも把握することはできなかった。
訪れたとある玩具店では、ある国の国家元首の大きな写真が壁一面に掲げられている部屋に案内され、帳簿の提示までしばらく待たされた。部屋に案内された当初は、壁の写真を見てビックリした多楠であったが、結局帳簿の提示があり突合の結果、残念ながら売上の漏れはなかった。
反面調査を行う場合、立て続けに5件も行って何も問題点が出ないと、調査官のマインドは落ち、諦めるケースが多い。しかし、このときの多楠は違っていた。昨年喫したあの屈辱を晴らすという強い一念が、多楠を奮い立たせていた。
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予定していた2日間もあっという間に過ぎ、2日目は午前午後と5件まわったが何の問題も発見できず、昼過ぎから天気はミゾレ模様、すでに時刻は3時を過ぎていた。
丸誠紙業はやはり岩井上席が言っていた例外事案なのか、さすがの多楠にも精神的、肉体的な疲労を感じ始めていた。
多楠は心に決めた。
“よし、これから中野区にある三本木商会に行って、何もなかったらこの事案は諦めよう。”
多楠が最後に目指す反面先、三本木商会株式会社は、アメ横でも有名なスポーツ用品店で、アメ横内にいくつか小売店を有していた。だが、丸誠の調査で三本木商会の本社事務所が中野にあることを把握していたので、アメ横近隣を反面先として優先的に選んだ多楠は、訪れる順を後にしたのだ。
JR中野駅からほど近い三本木商会に4時過ぎに着いた多楠は、古い茶色いタイル貼りの事務所の2階にある経理部に向かった。アメ横の会社といっても業種業態、規模は様々である。三本木商会はテレビのコマーシャルにも出てくるような、アメ横では名の知れた大きな会社であった。
多楠は2階のドアを開け、入口の応接電話越しに経理担当者に面会を求めた。しばらくすると中から中年の男が機嫌悪そうに出てきた。来意を告げ、協力を求める多楠、2日間で10件以上の反面調査を行っていたので、そのあたりの会話には馴れていた。
多楠に名刺を差し出した経理課長の峰岸は40歳前半、いきなりこう言い放った。
「東上野税務署? いつもなら連絡があるのに急に来て、こんな時間に何の用?? 来るなら事前に連絡してくれればいいのに・・・」
再度丸誠の反面調査であるとの来意を告げる多楠、「明日にしてくれ」とでも言われるかと思ったが、
「あっそう、それなら少し待ってて、書類を持ってくればいいのね。」
と言いながら、峰岸は近くのパーティション内に多楠を案内し、事務室内に戻って行った。多楠が来た趣旨が理解できたからか、5分ほど経ってから戻った峰岸は、先ほどより少しだけ応対が丁寧になったものの、相変わらず馴れ馴れしい。
「ウチは中野中央税務署の所轄だけど、いつも予告してから来るよ。ヨソの税務署が来るなんて何事かと思ったよ。ましてこんな夕方、突然にさ。」
多楠は素直に頭を下げ
「お忙しいところお伺いして恐縮です。」
峰岸
「ウチじゃなくて、丸誠さんの調査だよね。何かあったんですか、丸誠さんに。あそこの専務さん、そうそう、婿養子の。」
いきなり核心を突かれた多楠だったが、落ち着いたまま
「いえ、先ほども申し上げましたように、今日は御社と丸誠さんの取引を確認するためにお伺いしただけです。」
峰岸はまだ解せないというように
「ふーん、そうなんだ。はい、これがウチの支払の明細、とりあえず1年分、ウチは6月決算なので、あるのは去年の6月分までだけど・・・」
多楠は峰岸に礼を言い、さっそくチェックを始めた。しかし、丸誠から入手した売上を管理しているexcelの写しと突合するも、すべての売上が合致した。
“やはりダメか・・・。どうやら丸誠は例外の会社だったようだ。”
多楠はため息とともに肩を落とした。
書類をカバンにしまって帰り支度をしようとしたとき、峰岸が思い出したようにポツリと言った。
「そうそう、今調査官に見せた経費帳は第1営業部のもの。」
“えっ!”
驚く多楠に一瞬、稲妻が走る、
この峰岸の機転が、思わぬ展開をもたらすことになるのだった。
(続く)
この物語はフィクションであり、登場する人物や団体等は、実在のものとは一切関係ありません。
〔小説〕『東上野税務署の多楠と新田』は、毎月第1週に掲載されます。