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反面調査
社長の森本はすっかり気を取り直したのか、何事もなかったかのように多楠たちを迎え入れ、2人の調査官が求める帳簿書類を提示した。
多楠が調べたのは売上帳、新田が求めたのは給与台帳であった。
会社に来る途中、新田から「売上を見るように」と指示を受けた多楠は売上帳を、何か不審な点はないかと懸命に調べ始めた。
驚いたことに一方の新田は、午前とは一転して多弁。
給与についての詳細な説明を求め、帳簿書類を確認、そしてまた質問を繰り返した。
その質問は調査1年目の多楠でも理解できるほど極めて簡潔明瞭、多楠と話すときとはまるで別人である、まさに的確な仕事をこなす優秀な調査官の姿であった。
その新田の姿に少しのあいだ見とれていた多楠は、気づいた。
“そしてどうやら新田さんは、給与にポイントを絞ったようだ。”
新田は給与台帳を見ながら、森本社長に質問を続けた。
「社長さん、御社はここ4年間毎年決算期末の12月に2回社員にボーナスを支払っていますね。10日は銀行振込で25日は現金支給のようですが。」
森本
「新田さんも先ほど作業場をご覧になったでしょう。あんな汚くてうるさい作業場で、それも夏暑く、冬は極寒。 ウチみたいな小さな会社で一生懸命働いてもらうには、せめて儲かった時くらいボーナスを払うことぐらいしかできないんです。」
すかさず尾崎
「ここ数年アルミやステンレスの相場も活況で売上が右肩上がり、森本社長の頑張りもあってけっこう利益が出ました。でも社長は、利益が出たからといって独り占めにしないで従業員にも還元するという方です。いわば決算賞与、本当に従業員思いの社長ですよ。」
うなずきながら得意げに森本
「ボーナスを現金で払うと従業員たちも喜ぶんですよ。中には奥さんに内緒にしているヤツもいるんじゃないかなぁ。でも暮れなんで飲んだ勢いで落としたり、すられたりしないか心配なんですけどネ。」
しきりに森本をフォローする尾崎
「そうそう現金支給のボーナスの源泉所得税もしっかり徴収しているはずですよ。ウチの事務員が森本社長からなかなか支給額の連絡が来ないので年末調整の入力ができないって毎年のようにぼやいていますから、確認してみてください。」
それを聴いていた多楠は
(そうか、この社長ならあり得ない話ではないな。)
さっき社長が動揺したこともすっかり忘れ、半ば感心していた。
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調査は4時半ごろまで続いた。多楠は売上帳を黙々と確認したり、これはおかしいと思うところを書き写したりしていた。
新田は、一度トイレに立った以外は、従業員の5年分の給与台帳から、源泉所得税、社会保険の加入状況、通勤費の支給状況、それ以外ではタイムカードなどを丹念に確認しては森本社長に何度も質問をしていた。
時間になり、2人は会社を辞した。
100メートルほど歩き路地を曲がったところで、新田がポツリと言った。
「裏は取れた。」
夕方のまだ真夏の熱風が収まらないなか、2人の調査官は署へ戻った。
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翌朝9時。新田は「銀行に行く」と言って1人で署を出て行った。
「私はどうすれば」と新田に尋ねる多楠には
「昨日の続きをやれ。」
と言っただけであった。
昨日は三浦上席も仏具屋の調査で不正1,000万円を見つけたと鼻息荒く署に戻ってきたあと、淡路調査官に様々な説明や指示を熱心に行っていた。指導役なら「その日何を調べたか」「不審な点はあったか」「今後どう展開するのか」といったことを調査1年目の調査官に投げかけ、「次の日にはこうするように」と指示をするのが通常のはずである。
しどろもどろな概況聴取やひたすら売上帳も見ているだけであった多楠に対し、もっと指導があっていいはずだが、新田からはそれについてもまったくない。
内心“僕は相手にされていないんだな・・・”と多楠が思っても不思議ではない新田の言動であった。
結局何の指示もないまま、多楠は一人、金杉商店に向かった。
新田が調査に現れず不審に思う森本と尾崎を相手に、昨日に続き売上帳を、午後から仕入帳と在庫表を、ほとんど質問することなく、ひたすら確認する多楠であった。
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2日目以降の新田の動きは素早かった。
多楠を置いて例の定期預金の預入先である信用金庫の支店に調査に入った新田は、行員からの聴き取りと過去4年間の12月25日の金庫に保管してある現金出金伝票を丹念に追った結果、過去4年間とも源泉所得税を天引き後の現金で支払われた8名分のボーナスが、すべて各人名義の定期預金に、合計で3,000万円になっている事実を把握した。
しかも預金の届出印は、社長森本の個人印鑑になっていた。
その翌日、新田は従業員個人の収入状況を確認すべく、3つの区役所を回った。
彼らの収入は給与のみで、金杉商店は住民税の特別徴収(国税の源泉所得税と同じ手続)をしていないので、彼らの給与収入の申告を確認したのである。
確認の結果、8名すべてが25日のボーナスを含まない金額で給与の申告をしていた。
従業員たちは定期預金のことを知らされていないようだ。
かくして各4年間、12月に支払われていた2回のボーナスうち、25日に現金支給した分は架空(水増し)給与であり、8名分の定期預金32口3,000万円の証書は、森本の手の届くところに、厳重に保管されているものと想定された。
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さすがにその翌日からは別件の調査が入っていたため、2週間ほど経ったある日、新田は森本社長と尾崎税理士に会社で面接、新田がつかんだ不正計算の証拠をもとに、新田の追及が始まった。
新田の傍らで会話に入り込む余地もなく、ただやり取りを聴いている多楠。
森本もさすがに簡単には事実を認めようとはしない。
尾形税理士は不正の事実を知らないのか必死になって「悪いことをするような社長ではない。」と言って森本をかばう。
次第に「そんなことは絶対にない!」と顔を真っ赤にして激怒する森本、それを見てオロオロする尾崎、一片の動揺もなく冷静かつ丁寧な口調ながら厳しい追及をする新田。
どれくらい3人のバトルが続いたろうか。
やがて観念したのか、森本がポツリポツリと真実を語り始めた。
「売上代金のほとんどが手形決済なので、銀行への信用や手形が不渡りになった時のために使えるようにと、従業員名義で定期預金にしたもの。結局は事業を存続するためにやむを得ず行った・・・」
そして問題の定期預金の証書は、会社事務所の2階にある自宅に保管されていているとのことで、確認に行く2人の調査官と・・・。
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「タクちゃん! 起きなさい!」
多楠が目を覚ますと、カウンター越しに京子ママ。
「新田チャン、もう帰ったわよ。」
(何だ、夢? だったのか。)
多楠が見ていたのは夢ではない。
新田の見事な調査は、現実の出来事。
(新田さん・・・いったい何者なんだ。)
まだよく醒めていない頭で、多楠は考えをめぐらせていた。
(続く)
この物語はフィクションであり、登場する人物や団体等は、実在のものとは一切関係ありません。
次回より〔小説〕『東上野税務署の多楠と新田』は、毎月第1週に掲載されます。