新田の真意
翌朝、田村統括官が出勤すると、いつものように神妙な顔をして机拭きをしている多楠がいた。その姿を見て安心したのか、田村が腫物を触るように声をかけた。
「おはよう多楠君、昨日は遅くまでご苦労様。小泉調査官と新田調査官は今日直接銀行調査で夕陽信用金庫に行くことになったんだよ。昨日2人が署に戻ってきて、社長の自宅で把握した不審な預金の解明に行くんだって、なんだかワクワクするような事案になりそうだ。」
多楠がいつもどおり出勤してきたのにホッとしたからか、いつもの不正大好き統括官の田村に戻っていた。
「あ、そうそう、多楠君は次の会社の準備調査の続きをやるようにと、新田調査官が言っていたよ。」
「あ・・・はい。分かりました。」
何やら肩透かしを食らったような多楠であったが、仕方がないと机から書類を出し準備調査を始めた。
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その日、新田と小泉が署に戻ってきたのは、5時半ごろ、2人とも信用金庫でマイクロフィルムを見てきたらしく真っ赤な目をしながら、さっそく田村へ報告に行った。小泉は多楠の姿を見るなりニコッと笑いながら、新田は多楠の方を見向きもせずに田村の席に向かう。
(※) 一般に金融機関では、古い普通預金通帳はマイクロフィルムで保存されていて、復元作業はマイクロフィルムを機械で読み取りながら行う。目に負担のかかる作業なのである。
最近は、マイクロフィルムに替わりCD-ROMやPCで管理している金融機関も多くなっている。
その後、小1時間ほどで報告は終了し、自席に戻った新田に向かって多楠は直立不動の姿勢で、まるで古参の兵士に謝る新兵のような感じで体を90度に折り曲げて言った。
「新田さん! 昨日は申し訳ありませんでした!」
そう言うと、多楠は恐る恐る顔を上げ、上目づかいに新田の顔をチラリと見て驚いた。
“えっ! あの新田さんがほほ笑んでいる。”
傍から心配そうに2人を見つめる田村、小泉には、いつもの素っ気ない新田にしか見えないが、多楠には分かった。
昨日は鬼のような顔して怒っていた新田、外見はいつもの新田に見えるが、多楠が正面からチラリと見た新田の瞳の奥には、安堵に満ちた、ほのかな暖かい光が垣間見えた。
その後、多楠は小泉のところへ行き、同じように頭を下げた。
「いいんだよ。気にしなくて、おかげさまで調査もうまくいったしね。慌てて逃げた社長は自ら墓穴を掘った格好さ。」
こんなやり取りを見ていた田村はすっかり安心とした表情で、
「さぁ、昨日も遅かったから今日は早く帰ろう! 私も早く帰って奥さんのご機嫌をとらないと。いつ見放されて熟年離婚になって退職金を半分要求されたら大変だからネ・・・」
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半月後、ミキと林税理士が何度か税務署に来てやり取りを進めるうちに、すし勢の調査は終了した。
自宅で把握した帳簿や売上伝票が決め手となり、5年間で約3,000万円の売上除外が発覚したのであった。
小泉から聞いたところによると、ミキは子育てで忙しい中、現金出納帳や売上帳を付けていた。藤田社長は、ミキから預かった現金出納帳や売上帳から現金売上を除外した後、自ら書き換えた伝票を林税理士に渡していたらしい。
林税理士に帳簿は一切見せていなかった。いわいる“摘み申告”という手口の不正である。林はしきりに弁解した。
「社長はいつも酔っぱらっていて、『帳簿を見せてくだい』と言うと怖い顔をして怒鳴られるので、ついついそれ以上何も言えず、長年処理していたのがいけなかったんです・・・」
小泉が言うには、2人兄妹の社長とミキは、お互いが兄妹思いのようだ。
朝から深夜まで長時間働いて月給30万円では少ないだろうと、ミキは兄から毎月10万円程度のお金をもらっていたという。今思えば、誤魔化した売上の一部を妹へ渡していたのだろう。
小泉はミキに言う。
「売上を誤魔化さずにすべて帳簿に計上し、給与を支給して、しっかりそれも帳簿に載せる。給与の源泉所得税は徴収されるので手取りは減りますが、堂々と何もやましいことなく給与がもらえるんですよ。」
ミキは、ますます酒浸りになり、めっきり老け込んだ兄をいつも心配していた。そして兄の修業時代、厳しい親方や店の先輩に鍛えられ、死にもの狂いになって腕を磨いていた、あの溌剌としていた兄の姿が脳裏に焼きついて離れないという。腕の良い寿司職人になることを夢見て、やっとのことで御徒町駅近くに暖簾分けで店を開き、努力の甲斐あって店も繁盛した。
ところが、根っからの職人気質で家庭を顧みない兄は寿司屋の仕事に没頭した。子供に恵まれず、やがて妻にも愛想をつかれた。酒やタバコに逃げ道を求め、アルコール中毒に、そして離婚、「私以外に兄を助けられる人はいない」と、ミキはけっこう高給だった会社を辞め、兄の店を手伝うようになったのだ。
兄は職人気質が抜けず、売上をまともに申告するのは何だかもったいないというような古い感覚があったようだ。あるいは、修行していた店の親方も同じようなことをしていたのかもしれない。
ミキに月々渡していた以外の誤魔化したお金は、いつ自分が体調を崩して再入院してもいいようにと、月何回か夕陽信用金庫の職員に預けていたようだ。アルコール中毒の社長が太い指を震わせながら、こまめに日々の伝票を作り替え、誤魔化した現金を別に管理している姿は何とも想像しがたい。
社長とは調査初日に会ったきり、小泉も新田も会っていない。
“俺は税務署が大嫌いだ。会いたくない。林先生とミキに任せると言って関わろうとしない。”
小泉はこうも言った。社長は根っからの小心者でマメな人、だから不安や心の憂さを酒で紛らわしていたのだろう。ミキはちゃんと帳簿や伝票を付けているので、税務署の調査が入っても何もやましいところはないと自信を持っていた。
ところが意外にも、兄がそんなマメな作業をして、日々の売上を誤魔化していたとは思いもよらなかった。ミキ自身が悪いことをしていたわけではないから、不正が発覚した後は、元々があっけらかんとした性格なので、全面的に調査に協力するようになった。
調査最終日、修正申告を提出する日、小泉を誠実な調査官として信頼しているからか、ミキは小泉にしみじみと言った。
「いろいろ教えていただきありがとうございました。兄の体がいつまで持つかわかりませんが、これからは私がしっかり経理をやって、兄を支えていきます。」
負けん気の強い気丈なミキがうっすらと涙を浮かべながら、
「今後は私が付けている帳簿は林先生にすべてお渡しして、現金の管理も私がします。兄に任せると危ないです。また同じことをやりかねませんから・・・」
別れ際、笑顔が戻ったミキがふと気づいて新田に聞いた。
「そうそう、あの若い税務署の人どうなったんですか。あの後姿を全然見せないけど・・・」
「・・・・・・」
そして新田を見ながら、姉が弟を諭すように言った。
「あなたが若い人を鍛えたいという気持ちはわかるけど、ほどほどにしないと。」
「・・・・・・」
「あ、ごめんなさい。元々の原因は兄でした。さっさと逃げ出すから。昔から勘所がいい人なんです。予知能力っていうんですか、いくら酔っぱらっていても・・・」
ミキは小泉に深々と頭を下げ、お礼を言って帰って行った。
「いろいろとありがとうございました。ご面倒をおかけしました。」
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小泉は新田の気持ちが痛いほどわかっていた。新田が多楠に対して、なぜあのような厳しい言い方をしたのかを・・・。
この案件をまとめるためには、いかに今日の自分たちが真剣な気持ちで調査に来ているのかを訴えたのである。立ち会ったミキを通じて社長に伝えようとした1つの賭けであったのだ。
もちろん多楠に調査の厳しさを知らしめるという気持ちもあったろう。しかし、あのときの新田の怒りは多楠ではなく、明らかに藤田社長に向けての怒りだったのだ。
社長はあのときうまく逃げたと思ったかもしれないが、“税務調査はそんなに甘くないぞ”と思わせることこそが調査官の意地、心意気なのだ。
しかし、さすがの新田も、あの後、多楠を心配しているのが小泉にもよくわかっていた。
翌朝、夕陽信用金庫から小泉が気を利かして、電話で田村統括官に多楠の様子を確認した。多楠はいつものように出勤し、言われたとおり準備調査をしていると田村からの言葉を伝えたときの新田の様子を思い出していた。
ミキと林税理士の帰る後姿を見送る小泉と新田、小泉は何気なくチラリと新田の横顔を見た。小泉は知っていた。新田がただ厳しいだけのカリスマ調査官でないことも。
(続く)
この物語はフィクションであり、登場する人物や団体等は、実在のものとは一切関係ありません。
〔小説〕『東上野税務署の多楠と新田』は、毎月第1週に掲載されます。