新田調査官の過去
澤村が統括官、部下に新田、小泉調査官がいた当時の三田税務署の特調部門は、国税局管内でもダントツ1位の事績を挙げた部門であった。素晴らしい事績を挙げた新田は、その年の異動で国税局の法人課税課に行くのではと、もっぱらの噂だった。
しかしその結果は、残留。
理由は不明。澤村は墨田税務署の法人課税第1統括官に栄転、小泉も渋谷西税務署の総務課に異動した。
部門に残った新田は翌年も素晴らしい事績を挙げ、国税局入りが確実視されていたが、ここで事件に遭遇する。
2月に着手した不動産会社の事案でトラブルが発生。
この会社の女性社員が、自殺したのである。
当時新田は、その会社の調査で給与がおかしいと目をつけ、徹底的に調べ上げた。新田は勤務実態のない、社長より30歳も若い女性社員に給与を支払っていることを発見したのだ。実はその女性社員、社長の特殊関係人(つまり愛人)であった。
結局、架空の給与ということで事案は終了したが、その社員の存在が社長の妻に発覚し、妻は厳しくその女性を追及、大学生や高校生など多感な社長の子供たちを巻き込んで家庭内トラブルへと発展した。その挙句、女性は自殺したそうだ。
本来であれば、新田は調査で不正を見つけただけで、直接このトラブルには関係ないはずだが、社長が新田を逆恨みして、三田署の幹部にプレッシャーをかけてきた。そのような事態において、幹部は慌てることなく冷静に対応すればよかったのだが、社長が知合いの代議士に話を入れるという脅しに屈して結局謝罪。新田の栄転は取り消されてしまった。
多楠が先ほど見た澤村の怒りは、この当時を思い出してのものだったのだ。
さらに時を同じくして、プライベートで新田と妻の確執がピークに達しており、子供の親権をめぐる離婚調停と重なっている時期だった。小泉は離婚の理由について語ろうとしなかったが、結局公私ともにダメージを受けた新田は2年間、築地署の特調部門で待機、ほとぼりが冷めたころ国税局に送り込むという内々の約束で、事態の収拾が図られたのだった。
しかし、2年経っても新田は国税局に異動しなかった。
その理由は、その当時の担当統括官と折り合いが悪かったせいだ。
小泉が言う。
「だから一昨年、東上野署、しかも特調部門でなく一般部門に配属になったことで、新田君の怒りはピークに達したようだ。「約束が違う」って。悪いことに、いつもひょうきんな田村統括との組み合わせも良くなかったと聞いている。」
昨年の7月、東上野署に転勤した小泉が久しぶりに見た新田は、全くの別人のようになっていた。かなり荒れていたのだ。
見かねた小泉は、昔の上司である澤村に相談をした。
幸い澤村と安倍副署長は昔、リョウチョウで主査と実査官のコンビとなって一緒に仕事をしており、かなりの事績を挙げた間柄であった。
またこれも偶然だが、リョウチョウの主査になる前年、澤村が国税局の実査官から小岩税務署の新任統括官に昇任した時、隣の部門の統括官が田村で、その頃すでに統括官7年目だったベテランの田村に澤村はいろいろと教えを乞い、それ以来の飲み友達で大の仲良しとの情報をつかんだのだ。
小泉は新田の近況を異動直後、澤村に伝え、その後、澤村が安倍と田村に手をまわしたようである。どおりで昨年あれだけ口論ばかりしていた田村と新田が、今年は1回もぶつかっていない。
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“なるほど・・・新田さんにはそんな過去があり、小泉さんはそんな新田さんのことを思いやって、澤村トッカンを動かしたんだ。”
“なんとその3人が偶然、『スナックかわばた』に集まるなんて。”
小泉はさらに多楠に言った。
「去年の7月、新田君は僕にこうも言った。」
『久々に活きの良い、若い奴と組むことになった。』
『昔の自分を見ているような生意気な奴だけど、見どころがありそうだ。ああいう生意気な奴こそ、伸びシロがあるんだ。』
『アイツとなら、面白い調査ができそうだ。』
多楠は言葉が出なかった。
“京子ママの言うとおり、新田さんは僕に好意というか、それ以上の思いを持っていたんだ・・・”
そして小泉はきっぱりと言った。
「僕は信じている。新田君が立ち直るきっかけを作ったのは多楠君、君とペアを組んだからだ。新田君は少しずつ、昔の彼に戻りつつある。」
意外な真実が明らかになった。
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その晩、京成電車に揺られ、夜遅く帰宅したが、多楠は興奮のあまり眠ることができなかった、というより眠くならなかった。
去年7月、念願の調査部門に配属になったものの、言葉少なくやたら厳しい新田と組むことになり、毎日が憂鬱で仕方がなかった。新田の調査振りには目を見張るものがあったが、新田は調査に同行しても、多楠に対しては調査について何ひとつ教えようとしない。
“いったいこの人は何なんだ?”
そう多楠が思うのも当然である。そしてすし勢の事件。今思えば、あのときが一番苦しい時期だった。今はどうだろう。それらの出来事ははるか昔の懐かしい思い出になりつつある。
そして丸誠の事案で、多楠は1年生ながら調査官の意地を見せた。
新田のおかげで多楠は、「一人の調査官」として歩み始めることができたのだ。
人と人が織りなす生き様は、何とドラマチックで逆説的なドラマを生み出すのだろう。禍福はあざなえる縄のごとしともいう。
まさか苦しい境遇の新田に立ち直りのきっかけを作ったのは紛れもない、新人で右も左もよくわからない、未熟で生意気な、自分だったとは。
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多楠は自宅近くのいつもの散歩道を“キチ”と“ララ”と歩きながら、心の内で思った。多楠の今の部門への配属を決めたのは安倍副署長だが、それはまったくの偶然だ。部門がこのような組織になるなんて、さすがの安倍もそこまで読んでいたわけではないであろう。小泉の心遣いもあったが、まさに運としか言いようがない。
“しかし、5部門に配属になって本当に良かった。”
多楠は感じた。良い上司、先輩たちに囲まれて自分は幸せだと。ユーモアたっぷりの田村、温厚で思いやりのある小泉、いつも話相手になってくれる美形の人妻淡路、そして厳しい敏腕調査官新田。そんな皆への感謝の気持ちが湧き出してやまない。
安倍、田村、小泉そして新田も気づいているが、多楠はまだ気づいていない。
1年足らずの間に他の1年目調査官の誰よりも多楠が成長していることを。
「調査」というものについて一切語ることがなかった新田とのコンビが、多楠に化学反応ともいえる劇的な成長をもたらしたことを。
そして、新田さえもまだ気づいていないことがあった。
多楠との化学反応は、腐りかけていた新田を心の闇から解放させ、諦めかけていた次の大きな飛躍が間近に迫っていることを。
多楠は数えきれないくらいたくさんの失敗をした。部門の皆にも迷惑をかけ、一方でお世話にもなった。しかし、新田と一緒に調査をすることで、多楠自身が考え、行動する癖が自然に身についていたのだ。そして三本木商会の峰岸経理課長がもたらしたラッキーもあったが、年明けついに、すし勢の雪辱も果たした。
「一人前の調査官になるには、もっともっといろいろなことを学ばなければならない。よし!これからも奢らずに、気を引き締めて頑張るぞ!」
わがままな子犬たち“キチとララ”に引っ張られながら、心も新たに誓う多楠がそこに立っていた。
(終わり)
この物語はフィクションであり、登場する人物や団体等は、実在のものとは一切関係ありません。