危険な調査先
多楠が調査に行くことになった株式会社関東貿易商会の概要は次のとおりである。
- 会社名:株式会社関東貿易商会
- 社長:武淵逸男(48歳)
- 業種:バッグ、革製品輸入販売
- 決算:3月決算
- 売上(最終期):1億8,000万円
- 申告所得(最終期):800万円
- 税理士:鷺沼信雄(非OB、試験組)
- BS上やたら手形が多く資金繰りが悪いようだ。ここ5年間で売上は緩やかな右肩上がり、毎年申告所得500~800万円とそこそこの業績をあげている。
いよいよ初めての単独調査が始まった。
調査初日、多楠調査官は10時に会社へ着くと、1階の小さなショールームの横から奥の会議室に案内され、緊張する面持ちで部屋に入った。
そこにはすでに社長の武淵、経理部長の吉本、税理士の鷺沼が多楠を待っていた。
名刺交換、そしてしばし雑談をした後、小柄であまり顔色が良くない社長の武淵が勢いよく話し始めた。
「弊社はカバンや革製品の輸入販売を行っています。設立5期目の新しい会社なのでまだあまり信用がありません。ですから輸入をする際、代金を前払して製品を仕入れています。先に支払いがあるので資金繰りがあまりよくないのです。」
ひと呼吸おいた武淵は、少し声を落として言った。
「・・・多楠調査官、ここからは秘密です。気心の知れた業者仲間と手形のやり取りをしてお金の工面をしています。いわゆる“融通手形”です。このことが銀行に知れたら取引停止になってしまうので、絶対に口外しないでください。」
“しない、しない!!”
と言わんばかりに慌ててうなずく多楠
“確か『融通手形』は大学の簿記会計で習ったはずだ。お互いに手形を振り出し合い、銀行で割り引く危険な手形。まさか初めての税務調査でそんな危ない手形に遭遇するなんて!”
武淵は話し続ける。
「毎回何千万円も前払いしてイタリアやフランスから空輸されてきたコンテナの中身を見るときが一番心臓に良くない。相手先は弊社より信用はあるのですが、万が一コンテナの中身が空だったりまがい物であった場合、弊社は即・・・倒産です。」
武淵から発せられる言葉には、何回もきわどい取引をやっている当事者しか出し得ない緊迫した重みがあった。さらに眉間に深いしわを寄せ話し続ける。
「毎月末、一般の手形と融通手形で2,000万円から3,000万円の手形の決済があります。12月や3月末はその倍くらいになります。今までは何とかピンチを乗り越えてきましたが、今後どうなるかわかりません。資金の手当てがつかず、夜も眠れないときもあります。崖から誤って足を滑らせるか、もうこれまでと諦めて自ら崖から飛び降りるか・・・」
多楠は心の内で叫んだ。
“おいおい、そんな物騒な話は止めてくれ!初めての調査で大変な所に来てしまった!”
“でも、これって調査を何とか逃れようとする芝居なのか?いやいや、この社長、決して嘘は言っていない!”
武淵は多楠の顔をじっと見つめ、少し間をおいて、ゆっくり言った。
「なので私は・・・」
(続く)
この物語はフィクションであり、登場する人物や団体等は、実在のものとは一切関係ありません。
〔小説〕『東上野税務署の多楠と新田』は、毎月第1週に掲載されます。