大 逆 転
家への帰路、そして翌朝の満員の京成電車の中で、多楠は新田が言った『取れるぞ。』の意味を何度も推し量っていた。
“調査先は粉飾していて実質赤字会社であると新田さんに説明した。もれている売上よりも計上していない仕入の額が多いのだから、差引でプラスにならないのは百も承知しているはずなのに、なぜ?”
疑問は解決されないまま、予定どおり今日も関東貿易商会へ向かった。
2日目、武淵社長は朝から出かけていなかった。多楠は前日と同様、他にも売上の計上もれはないかを調べ始めた。
慣れてきたとはいえ、調査1年目である。はた目で見ていても決して要領よく見えるわけがない。3時を回ったころ、鷺沼税理士が呆れた顔をして多楠に声をかけた。
「多楠さん、まだ調べるの? 昨日も言ったようにこの会社は実質赤字でネ・・・」
多楠はまったりと話す鷺沼の顔をぼんやりと見つめながら、やや疲れが出始めている脳内に“ある事”が頭にひらめいた。鷺沼の言葉を遮り、吉本経理部長に聴いた。
「ところで吉本部長、昨日話があった仕入に計上していない輸入バッグ1,200万円は、その後どうなったのですか。」
吉本
「確か期末仕入なので、そのまま原木中山の倉庫に預けておいたはずですよ。」
多楠はたたみかける。
「期末までに売れていないのですね。在庫で残っていたんですね。念のため期末の棚卸表を確認させてください。」
提示された棚卸表を確認した多楠は、思わず「ヤッタ!」と叫んでしまった。
驚く吉本と鷺沼を前に、深呼吸をして落ち着こうとする多楠は、必死になって頭の中で仕訳を描いていた。
本来の仕訳
①(3月29日) 仕入 1,200万円 前払金 1,200万円
②(決算修正) 商品 1,200万円 仕入 1,200万円
“確かに「①仕入」はもれているが、「②棚卸」ももれている。
マイナスとプラス同額で、この会社は粉飾決算をしていると思い込んでいるが、実は粉飾はしていないことになる!”
ようやく鷺沼も事態の重大さに気づいた様子だった。
勢いづく多楠は鷺沼に言った。
「先生、昨日粉飾をしているとおっしゃっていましたが、確かに仕入計上はされていません。しかし、期末在庫にも載ってないので、結局のところ粉飾はなかったことになりますね。」
鷺沼
「いやあの、その・・・」
夕方、所用を終わらせ会社へ戻った武淵社長に、多楠が問題となっている点を説明すると、武淵の顔が見る見るうちに赤鬼のような顔へ変わった。説明を続けながら、多楠はまともに正視できなくなった。
まさに“崖っぷちの男”になった瞬間であった。
武淵は大きな声で言った。
「経理体制ができていないって? ウチみたいな中小企業は必死に営業をして売上を上げるのが先決、経理の人間を雇うくらいなら営業を増やす。経理を増やしても、売上は伸びず経費が増えるだけで納める税金は少なくなるはず、それでも税務署は経理を増やせと言うのか!」
答えに窮した多楠に、武淵は今にも泣き出しそうな顔をしてたたみかけた。
「この年末、手形資金をひねり出すのが大変な時期に、税務署にさらに追い打ちをかけられた。これでウチの会社もいよいよ倒産だ。大企業ならともかく、ウチのような小さな会社が倒産しそうになっても、国や税務署が助けてくれない!」
そう言うと武淵社長は多楠には見向きもせず、ブツブツと何事かつぶやきながら会議室を出て行った。
▼ ▲ ▼
翌日、多楠はさっそく現金売上先であるTMカンパニー株式会社に取引確認のため反面調査に出向いた。出かけようとしていたTMの岩井社長に協力を願い出て15分間だけ引き留め、話を聞いた。武淵社長とは友人で“良い製品が安く入った”ということで上野の本店に買い付けに行き、直接武淵社長に現金を手渡したとのことであった。
岩井社長が出かけた後、引き続き経理の担当者から仕入帳を出してもらい調べたところ、過去3年間のうち、取引はこのときの1回だけであることが確認できた。
後日、武淵社長は用があるといって、鷺沼税理士が1人、今回の調査結果を聞きに東上野税務署の多楠を訪れた。
〈株式会社関東貿易商会の調査結果〉
- 売上計上もれ過少対象:750万円(処分:売掛金)
- 〃 重加対象:100万円(処分:社長に対する賞与)
- 追徴税額:400万円(源泉所得税、加算税を含む)
- その他に延滞税と地方税も追徴
すっかり意気消沈した様子の鷺沼税理士、あの後、武淵に散々怒られたらしい。
おそらくこんなことを言われたのだろう。
「あんたが赤字だと言うから信じて粉飾をしたのに、最初から黒字なのが分かっていればほかに手立てもあったはず!どうしてくれるんだ!」
消え入るような声で鷺沼が嘆願する。
「多楠調査官、売上計上もれ100万円の重加算税は何とかなりませんかね。単にうっかり現金を会社に入金するのを忘れただけで、故意に売上を漏らしたのではないんですから・・・」
“想定の範囲だ。” 立場が完全に逆転する中、興奮を抑えながら多楠は冷静に答えた。
「先生、それは難しいです。売上代金100万円を現金で受け取ったのは社長です。その100万円が会社のお金として受け入れられておらず、簿外の現金になってしまっている。経理がしっかりしていれば、売上がもれていたことがわかったはずですよね。」
鷺沼税理士は「そうだよなぁ」というふうに肩を落とし溜息をつきながらしみじみ言った。
「武淵社長はさすがです。粉飾をしていなくても、もともと黒字だったんですね。私の勘違いでした。」
「後は私が納税の猶予で、税務署の徴収担当に掛け合ってみるしかないか・・・」
こうして多楠が手がけた初の単独調査は、まずまずの結果で終わることができた。
▼ ▲ ▼
場面は変わって赤羽のスナック「かわばた」。
関東貿易商会の調査が税理士の了解により確定すると、田村統括官はフロア中に響き渡るような声で言った。
「調査1年目の多楠調査官が会社の粉飾決算がないことを見破り、しかも100万円の売上もれの不正まで見つけた!」
第1報で副署長の安倍に報告、その後法人課税5部門あげての大宴会を行うことになった。もちろん発案者は田村である。その席に副署長も加わり、田村はますますヒートアップ。
「我々5部門は東上野署で事績トップの部門です! それを率いている統括官は私、田村です! こんなめでたいことはない! 退職金が少し増えるかも!」
そんな盛り上がりをみせた部門の飲み会の後、多楠は新田にいつものように誘われ「かわばた」へ。
新田は多楠を誉めることもなく、いつものように話もせず、水割りを飲んではカラオケを熱唱している。
そんなときふとスナックの扉が開き、一人の中年男性が店に入ってきた。
京子ママ
「あら澤さん! 久しぶりじゃない!」
すると奥で熱唱していた新田は、その男性を見るなりカラオケのスイッチを切り、すぐさま男の前に直立した。
「澤村トッカン・・・お久しぶりです。」
“トッカン??”
多楠は新田とその男性を不思議そうに見ていた。
(続く)
この物語はフィクションであり、登場する人物や団体等は、実在のものとは一切関係ありません。
〔小説〕『東上野税務署の多楠と新田』は、毎月第1週に掲載されます。