〔巻頭対談〕
川田剛の“あの人”に聞く
「村井 正 氏(関西大学名誉教授)」
【前編】

このコーナーでは、税理士の川田剛氏が聞き手となり、税法・税実務にまつわる第一人者から、これまでの経験や今後の実務家へ向けた話を聞いていきます。
今回は国内におけるドイツ租税法研究の第一人者である村井正関西大学名誉教授をお迎えしました。
(収録日:2015年2月27日)
〔語り手〕村井 正(関西大学名誉教授)
(写真/左)
〔聞き手〕川田 剛(税理士)
(写真/右)
川田
村井先生とはもう40年以上のお付き合いで、IFA(International Fiscal Association:国際租税協会)の総会などでお会いする機会も多いのですが、本日はこれまでなかなか聞けなったことをお伺いしたいと思います。
川田
この記事を読んでおられる若い読者のためにまず伺いたいのですが、そもそも先生が租税法の研究をされるきっかけというのは何だったのでしょうか。
村井
僥幸といいますか、きっかけとしてはいろいろな人との出会いがありまして、今思えば非常にラッキーだったと思います。
まず、昭和30年代の初めごろ、いくつかの出会いがありました。
当時、日本の大学には租税法の講義などはなかったんですね。それがシャウプ勧告で東京大学と京都大学に租税法講義を置くことになった。それで、京大には須貝脩一教授がおられて、その先生の租税法の講義に出ていたわけです。
それからもうお1人、汐見三郎先生。彼はシャウプミッションのときの日本側の顧問をやっていて、最初の税制調査会メンバーでした。それから日本租税研究協会(租研)を設立した方(初代会長)でもあります。
汐見先生も京大の経済学部教授でしたが、私が大学にいた頃は法学部の講師をしていたんです。ただ、体調を崩されて大学に来られないから、京都の神楽岡にある先生の自宅で、毎週ゼミをやっていたんですね。

川田
ご自宅でゼミですか。寺子屋的でおもしろいですね。松下村塾の“京大版”といったところですね。
村井
それで、京大で2代目の租税法の教授だった清永敬次さんと同志社の浅沼潤三郎さんと3人で毎週そのゼミに通っていました。すると汐見先生は租研の会長だから、私にも論文を書け書けと言うんですね。税法も何も分からないのに(笑)。それから租研には『租税研究』という刊行物がありますね。それを読め読めと言われて、一生懸命読んだ。
さらに、日本税法学会をつくった中川一郎さんも京都におられたので交流がありまして、京大を中心に、須貝脩一先生と汐見三郎先生、中川一郎さん、清永敬次さん。そういうつながりがあったんですね。
川田
亡くなられた方も含め、租税法を学ぶ人なら誰でも知っているような、すごい方々のお名前がたくさん出てきますね。
村井
ただそのころ、実は私、租税法ではなくて行政法を勉強していたんです。
村井
1963年から65年までドイツのハイデルベルクへ勉強に行ったのですが、その時は行政法のエルンスト・フォルストホフ(Ernst Forsthoff)先生のところで勉強しながら、租税法の講義もあったので受けたのですが、そのレベルがあまりにも低かったので興味が湧かなかった。
その後65年に日本に帰ってきて、関西大学法学部に採用されたときも行政法の人事でした。ところが、先ほどのように汐見先生からの薦めもあって、『租税研究』にちょっとしたものを書いていたんですね。すると業績リストの中に、行政法の論文の他に『租税研究』に書いたペーパーも載るでしょう。それで大学のほうから「お前、租税法も講義できるじゃないか」ということになった(笑)。
川田
村井先生は行政法だけでなく租税法の専門家なのではないか、そう思われてしまったんですね。
村井
そのころ、まだ日本の大学の法学部で租税法の講義というのは珍しかったのですが、行政法の講義を持ちながら、同時に租税法の講義も始めたわけです。そうしたら、だんだんそちら(税法)のほうが行政法よりも面白くなってしまった。
川田
それは研究と講義を重ねていくにつれて、徐々にそうなっていったということですか。
村井
はじめはよく分からないから、行政法と租税法の境目の問題をやっていたんです。それが、北川善太郎さんという日本を代表する民法学者がいて、北川さんとは学生のときから交流があった関係で、民法にも興味があったんですね。実は先ほどお話した中川一郎さんも、もともと民法の出身なんです。
その後、金子宏さんが租税法学会をつくろうということで新井隆一さんたちと一緒に参画してやっているうちに、租税法の中心は実体法だなということで、民法、商法と租税法の接点のほうに興味が移っていく。金子さんも最初は行政法をやっていたんだけども、私と興味が一致しまして、彼はアメリカの租税法から攻めていく、僕はドイツの税法から攻めていくということで、租税法の中心を実体法に置いてやっていこうというところで共鳴したわけです。
ですから、いろいろな偶然が重なって、今の道を進むことになったのです。
川田
やはり人との出会いというのはいつでもそうなのですが、特に若いときのそれは大切なんですね。
川田
ドイツの研究者との広いつながりは、どのようなことがきっかけだったのですか。
村井
大学で租税法を教えるようになった65年頃、日本の大蔵大臣(現 財務大臣)が、先進国の学者や役人を招聘するということをやっていました。
川田
そうですね。私もVATの関係でフランスの主税局長が来られたときに聴講させていただきました。
村井
それで、実際にドイツから役人とか学者が来ることになったら、私のところに「お前が通訳とアレンジをしろ」と声がかかったんです。今でも少ないけれども、当時も税法学者の9割はアメリカ税法の研究で、ドイツ税法の研究をやっている人が少なかったものだから、私が引っ張り出されたんですね。そうして結局、経団連や関経連、大蔵省など1週間ぐらい一緒にまわって、通訳しながらもいろいろ議論するわけです。
川田
確か村井先生と初めてお会いしたのもその頃だったように記憶しています。

村井
そうでしたね。そういった交流があったものですから、1978年に在外研究でドイツに長期滞在したときは、コッホやユルナーといった主税局長が「ボンに来い」と言ってくれたんです。ただ、ボンにも大学はあるけど、ケルンにしました。ケルンとボンの間は列車で20~30分で行けるんですね。そうしてケルンの大学に籍を置きながらボンへ行ったりという交流が始まった。
その頃、私はミュンヘンにもよく行っていたんです。ミュンヘンには、川田先生もご存じのクラウス・フォーゲル(Klaus Vogel)という国際租税法の有名な先生がいて、彼のゼミに行ったら、後に親友となるアルベルト・レードラー(Albert J. Rädler)が来ていたんです。彼とはすぐに意気投合して、そこからもう35~36年、お互いの自宅を行き来するような長い交流になりました。
このようにフォーゲルのゼミを通じてドイツの税法学者と深くつき合うようになったんです。
さらに、日本にはありませんけれども、ミュンヘンには連邦財政裁判所という、Tax Courtの最高裁があって、その裁判官もゼミに出ていました。それに大蔵官僚や学者、実務家も。
川田
混沌としていますね。日本と違って大学のゼミといっても出入り自由だから、そういうことができるわけですね。
村井
そういう交流を重ねるうちに、だんだん税法が楽しくなって、ケルンにいながら毎週ミュンヘンまで通っていました。そこから本格的に税法をやろうかということになったんです。ただし、そこでつくづく感じたのが、「日本は島国だ」と思いました。
それで、やはり国内税法だけではダメだということになって、79年に日本に帰ってきて、80年代の初めに大阪大学と関西大学に国際租税法の講義を置いたんです。そのころはまだ、東京のいくつかの大学を除いては、法学部で国際税法の講義はなかったと思います。
村井
本当にいろいろな人と出会ったことでやることが決まっていった。
川田
それはこれからの研究者や税理士の人たちに対する応援メッセージでもありますね。
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川田
村井先生は、IFAの総会にはかなり前から出ておられたんですか。
村井
1989年からです。その時はブラッセル開催でした。ちょうど関西大学とルーヴァンにあるカトリック・ルーヴァン大学とが交流していて、ルーヴァン大学のバニステンデール(Frans Vanistendael)教授がベルギーから来て、レードラーも来るのを知っていましたので、当時ヨーロッパでもドイツ以外の国にはあまり行ったことがなかったので、参加することにしました。それからまたいろいろな交流が広がったんですね。それからIFAはほぼ毎年出ています。
川田
その当時出ておられた日本人は、非常に少なかったんでしょうね。
村井
覚えているのは宮武敏夫さんと大塚正民さんぐらいです。日本人はそういう国際的な場にはあまり行かないので、レードラーも私によく「ただ行くだけでも、参加するだけでもいいから、日本人はもっと税の国際会議に出るべきだ」と言っていました。
川田
私も出席し始めたのは最近なんですけど、大変勉強になりますね。特に若い人にはぜひ行ってほしい。推薦人が2人いれば、税理士など実務家でもいいし、学者でもいい。基本的に制約はないんですね。諸外国からは、若い方がけっこう参加しているんですよね。日本の若い人にもぜひ参加していただきたいですね。

村井
川田先生がおっしゃるように、日本は今でも世界第3の経済大国なんだけど、そういう場でなぜ日本人は少ないのかというジレンマはあります。
実は2007年のIFA第61回総会は京都でやったんですが、そのとき感じたヨーロッパとの違いは、ああいう国際会議を開いたときに、欧米では企業がものすごくサポートするんですね。どんどん寄付をする。
村井
私は関西の企業に応援を頼もうと思って、関経連に紹介してもらって企業訪問へ行ったのですが、「私の会社は税金は関係ありません」とか言われて、がっかりした記憶があります。
やはり、学者が学会をやるときの日本の環境というのは、欧米に比べるととてもやりづらい。ドイツだと何かの学会をやるとなれば、すぐに企業がサポートしてくれるんです。
川田
うらやましいですね。そのような差が出るのは文化の違いなんでしょうか。
川田
ヨーロッパでは、学者と企業の交流が盛んなのでしょうか。
村井
そうだと思います。IFAの大会では、寄付をした企業の名前が表示されるのですが、見ると、その国の代表的な企業が寄付しているんですね。当然、お金もたくさん集まる。
それからもう1つ面白いと思った違いは、例えばミュンヘンでIFAをやったときに、すでに京都開催が決まっていましたのでいろいろ調べていたのですが、ミュンヘン市がIFAの参加者に、市バスなどの1週間無料券をくれるんです。それから美術館などの施設についても、IFAの会員というだけでディスカウントしてくれたりする。
そういうことを見たので、京都市にもそれを言ったんですけどね、残念ながらできなかった。
川田
そういう理解があると、運営する側は助かりますよね。参加者からみた印象もずいぶん違うと思います。
村井
ドイツは世界で一番研究者を大切にする国だと思います。
例えば今年7月に、ミュンヘンのマックス・プランク研究所に招ばれて1ヶ月滞在するんですね。マックス・プランク研究所というのは自然科学が主で、租税法の研究所はまだできて10年ぐらいです。その予算は、すべて政府がもっている。それで、私みたいな年配者でも、滞在期間中、奨学金をくれるんですよ。
村井
つまり国籍や年齢を一切問わないで、学問に対して最大のリスペクトを与える。先ほどお話した北川善太郎さんもハーバード大学でずっと講義をしていたしドイツの大学でも講義をしたけど、比較するとやはりドイツが世界で一番研究者を大切にするということを言っていました。
ドイツ、スイス、オーストリアと3つの国が国境を接しているボーデン湖(Bodensee)という湖があるんですが、そこのドイツ側にリンダウ(Lindau)という町があって、そこで最近、毎年何をやっているかというと、ドイツ政府とスウェーデン王室が組んで、ノーベル経済学賞の受賞者を全員呼んでいるんですね。
何を考えているかといったら、そこにドイツの若い研究者を行かせて、ノーベル賞の受賞者と交流させる。それで、今はアメリカがノーベル賞を独占しているのですが、またかつてのように、ドイツが巻き返しに出るという取組みなんですね。ちなみにスウェーデン王室はボーデン湖ドイツ領にあるマイナイ島を所有しています。あるいは「第二のダボス」をねらっているとも憶測されています。
川田
初めて伺いました。素晴らしいし、壮大な話ですね。
村井
それぐらいのことを国がやっているということです。
川田
なるほど。村井先生のように、海外でのご経験がないと気づかないお話ですね。
川田
ところで、それほどまでにいかないとしても、身近なところで日本が抱える問題点のようなものはあるのでしょうか。
村井
そうですね。日本では、様々な立場を離れた議論の場がやや少ないと思います。
例えば大阪国税局の中で毎月研究会をやっていまして、そこには裁判官や訟務検事等も参加してくれるのですが、先ほどお話したフォーゲル・ゼミの状況と比較すると、裁判官も国税の人も、ほとんど自分の意見を言わない。

川田
そうかもしれませんね。私見であっても、もっとぶつければいいと思うのですが。
村井
だから私は議論を引き出す役割で、「今日は皆さん方、自分の立場を離れて言ってくださいね」と誘導するんだけども、なかなか難しいですね。辛うじて話をしてくれることもありますが、やはり自分のポジションの枠でしか物を言わないという感じで。
ただし、逆にレードラーが日本の国税庁に行っていろいろ日本の制度について質問するでしょう。そうしたら、外国人に対しては結構オープンにしゃべっているらしい。「日本の国税庁はオープンですね」と言われたりするんです。
川田
なるほど。確かに、おっしゃるように外国人に対しては割合オープンですね。税務大学校でも、もっと海外の大学の人たちを呼んで話をしてもらったほうがいいのかもしれませんね。
(後編(4/23公開)へ続く)