相続税の実務問答 【第12回】 「代償分割により固有資産の移転があった場合」 税理士 梶野 研二 [答] あなたが所有する土地を代償分割によりお姉様に移転した場合には、その移転の時に、その時の時価によりその土地を譲渡したこととなります。したがって、この移転によりあなたに譲渡所得が発生することとなれば、所得税が課されることとなります。 この場合、譲渡所得の金額の計算上控除する取得費は、お父様が昭和30年代にこの土地を取得した際の購入価額が基となります。 ※画像をクリックすると、別ページで拡大表示されます。 ● ● ● ● ● 説 明 ● ● ● ● ● 1 代償分割による資産の移転 相続財産の全部又は一部を共同相続人のうちの1人又は数人に相続させるとともに、その者から他の共同相続人に対して金銭の支払い等の一定の債務を負担させる方法により行う遺産の分割の方法が代償分割です。 債務を履行する方法としては、相続財産の全部又は一部を取得する相続人が、他の共同相続人に対して金銭の支払いを行うケースが比較的多いのではないかと思われます。 しかし、相続財産の全部又は一部を取得する相続人が、その相続人が従前から所有する資産(固有資産)を、他の共同相続人に移転することにより行うこともできます。この場合には、次の2の(1)のとおり、その固有財産を移転した相続人に対する所得税課税の問題が生じます。 したがって、代償分割により固有資産を他の相続人に渡そうとする場合には、譲渡所得に係る所得税や住民税の負担についても考慮に入れておく必要があります。 2 代償分割による資産の移転があった場合の課税問題 (1) 固有資産を移転した相続人に対する譲渡所得課税 代償分割により固有資産を移転する行為は、その移転により消滅することとなる債務の額に相当する経済的利益を対価とする有償譲渡が行われたものとされます(所基通33-1の5)。これは、代物弁済により資産を譲渡した場合と同様に考えられるからです。 そうしますと、代償分割により負担した債務の履行として譲渡所得の基因となる資産の移転が行われた場合には、その移転の時に、その資産の時価相当額の収入の実現があったことになり、この金額が譲渡所得金額の計算上の譲渡価額となります。 (2) 代償債務の履行として資産を取得した相続人の課税問題 (イ) 代償分割により他の相続人の固有資産を取得したとしても、当該資産の価額は相続税の課税対象とされますので、贈与税や所得税の課税対象にはなりません。 (ロ) 代償分割により債務を負担した者から、当該債務の履行としてその者の固有資産を取得した場合には、その資産は、その履行があった時において、その時の時価により取得したことになります(所基通38-7(2))。したがって、当該債務の履行として取得した資産を、将来、当該資産を取得した相続人が譲渡した場合の譲渡所得の金額の計算上、控除する取得費は、この時価を基に計算することになります。 3 ご質問の場合 (1) 質問者の譲渡所得 (イ) 譲渡価額 あなたは、お母様の遺産の分割の方法として、お母様とあなたが居住していた建物とその敷地を相続することと引き換えに、あなたが15年前にお父様から相続した土地をお姉様に移転するという代償分割を考えているとのことです。 そうしますと、あなたがお父様から相続した土地は、お姉様に移転した時に、その時の時価で譲渡されたことになりますので、この時価が譲渡所得金額の計算上、譲渡価額ということになります。 この場合の時価とは、客観的交換価値をいうものと解されており、通常、純然たる第三者間で取り引きされる場合に成立するであろうと認められる価額をいうものであると理解すればよいでしょう。 したがって、相続税の課税価格の計算に使用されるいわゆる相続税評価額ではないことに注意する必要があります。 (ロ) 取得費 この土地は、15年前にお父様から相続により取得したものであるとのことですが、相続(限定承認によるものを除きます)により取得した財産については、所得税法第60条第1項第1号の規定により、その者が引き続き所有していたものとみなすこととされています。 したがって、譲渡所得の金額の計算をする場合のこの土地の取得価額は、お父様から相続した15年前の価額ではなく、お父様が、昭和30年代に購入した際の価額を基に計算することとなります。 土地に係る譲渡所得の金額は、その土地の譲渡価額から、その取得費と譲渡費用の合計額を控除して算出することとされています。お父様の購入価額が不明の場合には、上記(イ)の時価、すなわち譲渡価額の5%を取得費として譲渡所得の金額を算定することが認められています(措法31の4①、措通31の4-1)。 いずれにしましても、昭和30年代の地価水準と現在の地価水準を比較すると、おそらく、譲渡所得の金額が算出されることとなると思われますので、その場合には、所得税の申告及び納付が必要になります。 (2) お姉様が代償債務の履行として取得した土地の取得価額 お姉様が、代償分割により債務を負担したあなたから取得した土地については、その履行の時に、その時の時価により取得したこととなります。したがって、お姉様が、将来、青空駐車場となっているこの土地を売却し、譲渡所得の計算を行う場合には、あなたからこの土地の移転を受けた時の時価を基に取得費を求めることとなります。 上記(1)の(イ)で述べたあなたの譲渡価額との整合性を保つため、代償分割を行う際には、この「時価」について、お姉様とすり合わせをしておくとよいでしょう。 (了)
電子マネー・仮想通貨等の非現金をめぐる 会計処理と税務Q&A 【第8回】 「クレジットカード利用時に付加されるポイントを利用した場合の税務」 公認会計士・税理士 八代醍 和也 A 前回は、クレジットカード利用時に付加されるポイントを使って物品を購入した場合の会計処理について解説を行った。 今回は同様のケースにおける税務上の留意点について見ていくことにする。なお、今回取り上げる論点については、基本的に同じ性格を有するポストペイ方式の電子マネーにも当てはまるものと考えられる。 1 法人税の取扱い 〈ポイント①〉 法人税法上は、特段の留意点なし。会計と同様、通常の値引処理として減額後の純支払金額で経理処理するものと考えられる。 本稿の執筆時点において、クレジットカードのポイントを使用して物品を購入した場合の取扱いを定めた税法上の規定は存在しない。そこで、法人税法22条第4項において定められた『一般に公正妥当と認められる会計処理の基準』に従って計算されることになる。 すなわち、前回解説を行った、ポイント使用による減額を一種の値引きと捉え、取得原価主義に基づいて、その取得に当たって実際に支払われた減額後の金額による経理処理が、法人税法においてもそのまま認められることになるものと考えられる。 2 消費税の取扱い 〈ポイント②〉 消費税においても、会計と同様、通常の値引処理として経理した減額後の純支払金額が課税仕入になる。 1と同様に、消費税法においても、クレジットカードのポイントを使用して物品を購入した場合の取扱いを定めた税法上の規定は存在しないが、税大論叢58号(平成20年6月20日)において『マイレージサービスに代表されるポイント制に係る税務上の取扱い-法人税・消費税の取扱いを中心に-』という論文が収録されており、国税庁ホームページにおいて要約及び全文が閲覧できるため、以下、こちらを参考としたい。 上記論文において、物品購入を含むポイント使用時の消費税法上の取扱いについて述べられており、要約版を抜粋すると次の通りである。 上記の最後に値引割引についての言及があり、値引部分について不課税であるとされ、差額支払金の対価を課税取引として認識する旨記載されている。 これを前回と同じ設例で図示すると以下のようになる。 なお、値引以外に取り上げられているケースについて整理すると、次のとおりである。 (了)
特定居住用財産の買換え特例[一問一答] 【第18回】 「買い換えた土地建物の一部を居住の用に供する期限までに贈与した場合」 -期限前の贈与- 税理士 大久保 昭佳 Q Xは、昨年の8月に自己の居住用財産(所有期間が10年超で居住期間は10年以上)を売却して、新たに居住用家屋とその敷地を同年12月に取得し、「特定の居住用財産の買換えの特例(措法36の2)」の適用を受けて申告しました。 本年1月にXは妻と共に買換取得資産を居住の用に供しましたが、同年の11月に、その買換取得資産の4分の1を妻へ贈与しました。 この場合、贈与した部分についても買換資産として同特例の適用対象とすることができるでしょうか。 なお、Xは、持分の贈与をした後も、妻と共に当該買換資産には居住しており、また、売却に係る譲渡価額と贈与に係る時価額との合計額は1億円を超えません。 ※画像をクリックすると、別ページで拡大表示されます。 A 贈与した部分については、買換取得資産として「買換えの特例」の適用を受けることはできません。 ●○●○解説○●○● 「買換えの特例」は、その特例を受けた者が、譲渡資産を譲渡した年の12月31日までに買換資産の全部を取得している場合に、譲渡の年の翌年12月31日までに買換資産を当該個人の居住の用に供しない場合、又は、供しなくなった場合には、譲渡の日の属する年分について修正申告を提出すべきことと規定されています(措法36の3①)。 すなわち、この特例の適用を受けるには、譲渡の年の翌年12月31日において、買換資産を自己の居住用として使用していることが要件とされます。 そして、この場合において、「買換資産を当該個人の居住の用に供しなくなった場合」とは、物理的に居住の用に供しなくなった場合のほか、当該個人がその資産の所有者の権限として居住の用に供しなくなった場合を指すものと解されています。 このことは、この特例が、個人が一定の居住用財産を譲渡し、かつ、一定の居住用財産を取得した点に着目して課税を繰り延べるものであることからみても明らかであると考えられています。 したがって、本事例の場合、贈与した部分については、翌年12月31日において、その資産の所有者として居住の用に供していないことから、この特例の適用を受けることができないことになります。 (了)
連結会計を学ぶ 【第5回】 「連結の範囲に関する適用指針③」 ―意思決定機関を支配していないことが明らかなケース― 公認会計士 阿部 光成 Ⅰ はじめに 前回に引き続き、「連結財務諸表における子会社及び関連会社の範囲の決定に関する適用指針」(企業会計基準適用指針第22号。以下「連結範囲適用指針」という)にしたがって連結の範囲を解説する。 なお、文中、意見に関する部分は、私見であることを申し添える。 Ⅱ 意思決定機関を支配していないことが明らかなケース 他の企業の意思決定機関を支配していることに該当する要件を満たしていても、財務上又は営業上もしくは事業上の関係からみて他の企業の意思決定機関を支配していないことが明らかであると認められる場合には、当該他の企業は子会社に該当しない(連結会計基準7項ただし書き、連結範囲適用指針16項)。 これは、営業取引のために議決権を行使していても、投資先である他の企業と連結グループとみなされるような運営がなされておらず、他の企業の意思決定機関を支配する意図はないと判断できる場合であり、例えば次のケースである(連結範囲適用指針16項、41項)。 (了)
ファーストステップ 管理会計 【第12回】 「外注の意思決定」 ~自家製あんこにこだわるか~ 〔意思決定編②〕 公認会計士 石王丸 香菜子 管理会計のうち、企業が意思決定をする際に役立つ情報を提供するための会計を意思決定会計と呼びます。前回に続き、日常的な「業務的意思決定」の方法について、考えてみましょう。 今回も、皆さんがベーカリーの経営者になったつもりで、意思決定してください。 ◆あんパンのあんこを自家製にする あるベーカリーでは、あんこがたくさん入った「ずっしりあんパン」を販売しています。 このあんパンには、専門店に外注した“極上あんこ”を使っています。おいしいあんこがたっぷり入っているので、あんパンの売れ行きは好調ですが、専門店からのあんこの仕入れ値が高いため、あんパンの販売による利益はあまり多くないのが現状です。しかし、近隣にもベーカリーやたい焼き屋があるため、経営者であるあなたは「ずっしりあんパン」の売価の値上げは難しいと考えています。 そこで、「あんこを自家製にしてあんこの原価を節約すること」を思いつきました。 『あんこを外注する案』と、『あんこを自製する案』の2つを比較検討することにします。 なお、両案のあんこの味の違いについては考えないことにして、どちらの案でもあんパンの販売量は同じとしましょう。 (“あん”ばかりですいません!) ◆埋没原価は考慮しなくてよい 前回見たように、どちらの案を選んでも必ず発生してしまう「埋没原価」については、意思決定上は考慮する必要がないのでしたね。あんパンのパン生地にかかる原価や、あんパンを焼くために使うオーブンの償却費などの原価は、あんこを外注する案でも、あんこを自製する案でも、必ず発生する埋没原価なので、意思決定にあたっては考慮する必要がありません。 2つの案の違いは、あんこにかかる原価だけですので、これについてだけ考えます。 このベーカリーでは、あんパンのために必要なあんこの量は、年間500kgです。 そして外注する案では、あんこの仕入れ値は1kg当たり600円です。 一方、自製する案では、原料代など1kg当たり300円の変動費がかかります。また、あんこを煮る釜をレンタルする必要があるので、年間120,000円の固定費がかかります。 以上を条件として、両案の原価を比較してみましょう。 このように、あんこを自製する案のほうが、外注する案よりもあんこの原価が30,000円少なく済みますので、自製案が有利ですね。 ◆あんこを自製することで「失うもの」が? ここで留意しなければならないのは、「あんこを自製することで失うものがある」ケースです。 前述の条件に、次のような条件が加わるとします。 あんこを煮る釜はコンロに設置します。ベーカリーの厨房は狭く、コンロの数が限られているとしましょう。あんこの釜を設置すると、コンロが1か所使えなくなりますね。 現状、このコンロでは、コッペパンの一部を揚げて“揚げパン”にする作業を行っています。コッペパンの一部を揚げパンに加工して販売することで、コッペパンとしてそのまま販売するよりも、40,000円多い利益を得ています。 あんこの釜をコンロに設置する場合には、この作業は行うことができなくなり、すべてをコッペパンとしてそのまま販売することになるので、40,000円の利益は得られません。 このような条件を加えた場合、あんこを外注する案と自製する案のどちらが有利でしょうか? ◆得られるはずだった利益を考慮する あんこを自製する案を選択すると、揚げパンによる利益40,000円は失ってしまいます。一方、あんこを外注する案を選択すると、揚げパンによる利益40,000円を得ることができます。 つまり、2つの案を比較する時には、直接的にあんこのために支出する金額だけでなく、次のように、この40,000円も含めて、どちらが有利かを判断する必要があるのです。 あんこの釜を設置しなければ得られるはずだった利益40,000円を、自製する案の原価に含めて考えると、自製する案の原価は合計310,000円となります。外注する案のほうが、自製する案よりも原価が10,000円少なく済みますので、外注案が有利になります。 あんこの釜を設置したことで失ってしまった揚げパンの利益のように、ある案を選択した場合に、得る機会を失ってしまう利益のことを、管理会計では「機会原価」と呼びます。 あんこを作るために直接的に支出するわけではないものの、あんこを自製する案を選択することで結果的に取りそびれてしまった利益なので、「あんこの原価とみなす」ということです。 ◆最終的には損益以外も考える 冒頭に述べたように、今回の事例では、あんこを外注する案と自製する案とで、味の違いは考えませんでしたが、現実には、この点も考える必要がありそうです。 あんこを自製する場合、その味や品質をセールスポイントとして、「ずっしりあんパン」の売上を大幅に増やすことができるかもしれません。また、あんこを自製することで、おいしいあんこ作りのノウハウを得て、他の商品開発に役立てることができる可能性もあります。 一般に、外注か自製かを判断する場合には、意思決定会計で得られる情報の他に、両案の品質の違いなどを吟味する必要があります。また、自製から外注に切り替える場合には、自社に技術やノウハウが蓄積されなくなったり、状況によっては、自社の技術が外部に流出したりするケースもあります。 ですから、意思決定会計による分析結果を踏まえ、実際の意思決定にあたってはこれらの点も総合的に勘案する必要があります。 ◆業務的意思決定のポイントまとめ 前回から今回にかけて、業務的意思決定の考え方を取り上げました。 ではここで、業務的意思決定をするうえでのポイントをまとめてみましょう。 * * * * 次回からは、企業の活動の枠組みを大きく変革するような「構造的意思決定」について説明していきます。 (了)
組織再編時に必要な労務基礎知識 Q&A 【Q2】 合併とはどういうものか 特定社会保険労務士 岩楯 めぐみ 【A】 合併とは、2つ以上の会社が1つの会社になることをいい、消滅会社の権利義務は、存続会社又は新設会社に包括的に承継される。 合併の種類 合併とは、2つ以上の会社が合併契約により1つの会社になることをいい、吸収合併と新設合併の2種類がある。 吸収合併とは、合併する会社のうち1つの会社を存続させ、その存続する会社(存続会社)に他の会社(消滅会社)の権利義務を承継させるものをいう。 【吸収合併のイメージ】 A社(存続会社)とB社(消滅会社)の合併 新設合併とは、新しく会社を設立し、その新設した会社(新設会社)に合併するすべての会社(消滅会社)の権利義務を承継させるものをいう。 【新設合併のイメージ】 A社とB社を合併して新設会社C社を設立 合併による権利義務 合併の場合は、契約により権利義務は包括的に承継される(会社法第750条第1項等)。よって、吸収合併の場合は存続会社に、新設合併の場合は新設会社に、消滅会社のすべての権利義務が、合併契約の効力発生日に自動的に承継されることとなる。 (了)
税理士が知っておきたい [認知症]と相続問題 〔Q&A編〕 【第11回】 「死後に婚姻・養子縁組の無効が争われるケース(その1)」 クレド法律事務所 駒澤大学法科大学院非常勤講師 弁護士 栗田 祐太郎 [設問11] 先月、自宅近くの介護付き有料老人ホームに長年入居していた私の父が、95歳で亡くなりました。父には私を含めて3人の娘がおります。父の妻、つまり私の母親は既に10年前に亡くなっています。 父は、資産家である名門の一族に生まれた長男でしたから、実家の土地建物以外にも都内に多くの不動産を所有し、預貯金もそれなりの金額がありました。これらすべてが父の遺産ということになります。 四十九日が過ぎてから父の遺品を整理しましたが、遺言書は特に見つかりませんでした。そのため、私たち姉妹3人で遺産分割の協議をしようと思っていた矢先、予想もしなかった連絡が入ったのです。 ◆ ◆ ◆ その連絡は、父がお世話になっていた老人ホームで父の担当をしてくれていた50代の女性Aさんからのものでした。Aさんいわく、父が亡くなる1ヶ月前に、父のたっての希望ということで、父と入籍したというのです。しかも、離婚歴のあるAさんには既に成人している2人の子供がいるそうですが、入籍と同時に、この2人の子供が父と養子縁組をしたというのです。 Aさんは、自分と子供たちも法定相続人となるため、遺産分割協議に加わりたいという申し入れをしてきました。 Aさんのことは、私も何度か老人ホームでお会いしています。そのときは私たち家族に対しても感じが良く、父の面倒もよく見てくれていて大変ありがたく感じていたのですが、裏でこのようなことになっていたとは全く知りませんでした。もちろん、父からも入籍のことを聞いたことはありません。 ◆ ◆ ◆ 入籍した頃の父の様子と言えば、周囲の人と会話が全くできないわけではありませんでしたが、それでも相当身体も判断能力も弱っていて、短い会話をするのがやっとという状態でした。このような状態の父が、Aさんとの入籍やAさんのお子さん方との養子縁組を了解したとは到底思えません。 私たち3人姉妹としては、Aさんとお子さん方が相続人であることについて強く争いたいのですが、どのように進めていけば良いのでしょうか。 1 遺産分割調停は「ロードマップ(手順)」が決まっている 【設問11】のような事例は昔から度々あるもので、特に芸能人や財界人が当事者となるケースなどは、週刊誌等でも取り上げられ話題になることも多い。 さて、相談者としては、今後、A及びその子供たちとどのような手続で、どのように争っていけば良いであろうか。 これを検討する際には、遺産分割調停が通常どのような手順を踏んで進められていくかを知っておく必要がある。 遺産分割は、被相続人が生きている頃からの長年にわたる様々な出来事や諍い(いさかい)を背景とし、積もり積もったものが激しい感情的対立を伴って一気に噴出する場でもある。 そこで、家庭裁判所は、このような複雑かつ感情的な対立に振り回されることなく公平かつ円滑に遺産分割調停を進めることができるよう、遺産分割調停の進め方についての“統一的なロードマップ”を作成し、公開している。 これが、次に示す「遺産分割調停の進め方(チャート)」と呼ばれるものである。 (※) 東京家庭裁判所ホームページより 本稿では、チャートの内容を逐一説明することは割愛するが、これは国内のいずれの裁判所においても使われている標準的なロードマップであり、遺産分割調停に携わる者にとっては必ず押さえておかなければならない必須知識である。 2 「相続人であることについての争い」は、調停では扱えない 【設問11】における争いは、①Aと相談者の父との間の婚姻が無効であると主張する点と、②Aの子供たちと相談者の父との養子縁組が無効であると主張する点の2つを含むものである。そして、この2点が認められるか否かで、各人の法定相続分は大きく変わってしまう。 すなわち、【婚姻・養子縁組の双方が有効】となれば、各自の法定相続分は、Aは2分の1、相談者の3姉妹とAの2人の子供は各自10分の1ずつとなる。他方で、【上記のいずれも無効】となれば、Aと子供たちは法定相続人とはならず、相談者の3姉妹だけが各自3分の1ずつの法定相続分を有することになる。 上記2点の争いは、前記チャートでいう一番目のテーマ、すなわち「① 相続人の範囲」に関する争いである。 【設問11】では、この点に関していわゆる「前提問題」の争いが存在するということであり、設問の状況や利益状況に照らしても、話し合いで一定の結論をもってこの争点について合意できる可能性は極めて低い。 そのため、前提問題については遺産分割調停では取り扱うことができず、別途、訴訟において争い、裁判所で確定した後、改めて遺産分割調停を進めるということになる。 この手順を誤り、いきなり遺産分割調停を申し立てたとしても、早晩調停は先に進まなくなり、裁判所から調停申立ての取下げを指導されることになる。 このように【設問11】のようなケースにおいては、いきなり遺産分割調停を申し立てたとしても、時間と労力が無駄になる可能性が高い。 3 婚姻無効の訴え/養子縁組無効の訴えを起こす側の争い方 【設問11】における相談者、すなわち、婚姻の無効及び養子縁組の無効を主張する側としては、家庭裁判所に対し、人事訴訟としての「婚姻無効確認の訴え」及び「養子縁組無効確認の訴え」を原告として提起し、その裁判手続の中で争っていくことになる。 そして、設問のように、婚姻・養子縁組の届出当時の判断能力の低下が争点となる場合、原告としては、下記の事由に基づき無効を主張していくことになる。 以上のように、仮に届出当時、相談者の父が認知症により判断能力が低下しており、内容を理解・承諾しないまま婚姻及び養子縁組の届出書の作成と届出がなされたという場合には、婚姻・縁組意思も婚姻・縁組届出意思も存在せず、婚姻・養子縁組は無効となる。 以上のような婚姻意思・養子縁組意思に加え、この種の訴訟においては、「婚姻や養子縁組に至った経緯がどのようなものであったのか」という事実経過が極めて重要となる。 原告側としては、「婚姻や養子縁組に至った流れが不自然であること」を強調していくことになる。 次回(6/29公開)も引き続き、今回のケースについて解説を続けることとする。 (了)
役員インセンティブ報酬の分析 【第4回】 「中長期連動金銭報酬等①」 -平成28年度の状況- 弁護士・公認会計士 中野 竹司 1 役員報酬のための中長期連動金銭報酬の概要 (1) 全体像 役員インセンティブ報酬には大きく分けて、報酬の交付物が「金銭」か「エクイティ」かに分けることができる。今回は、役員インセンティブ報酬のうち、金銭報酬について取り上げる。 なお、平成29年度税制改正により、インセンティブ報酬の法人税法上の損金算入の可能性が高まったことから、今後多様なインセンティブ報酬プランが設計されてくると考えられるが、今回は平成29年度税制改正前のプランについて検討する。 役員インセンティブ報酬の中の金銭報酬のタイプは、大きく分けて「業績連動型」と「株価連動型」がある。 このうち、業績連動型金銭報酬の例としては、年次業績連動型賞与やパフォーマンス・キャッシュといったタイプがある。 また、株価連動型金銭報酬の例としては、ファントム・ストック(Phantom Stock)やストック・アプリシエーション・ライト(Stock Appreciation Rights:SAR)などがある。 これらの概要は、次の表のようなものである。 (2) 年次業績連動型賞与及びパフォーマンス・キャッシュの導入例 オムロン株式会社は、取締役の報酬等のガバナンス体系を、①基本報酬、②単年度業績連動賞与、③中期業績連動賞与及び持株連動報酬並びに業績達成条件新株予約権を採用しており、上表の年次業績連動型賞与及びパフォーマンス・キャッシュのいずれも導入している。 そして、②単年度業績連動賞与の算定方法は、役位ごとの基準額を基本に、税引前当期純利益、投下資本利益率(ROIC)、株主に帰属する当期純利益及び1株あたりの配当を賞与の評価指標として、評価指標の達成率、伸び率に応じて決定するとしている。 また、③中期業績連動賞与については、中期経営目標の達成度に連動していると開示している。 (3) ファントム・ストックの導入例 野村ホールディングス株式会社は、ファントム・ストックプランを導入している。 同社は、変動報酬を「現金賞与」と「繰延報酬」に分けて設計し、繰延報酬の中にファントム・ストックを組み込んでいる。ただし、同社の報酬制度の概要の開示では、役員及び従業員の報酬制度を開示しており、また、必ずしも日本居住者の報酬でない場合がある点に留意が必要である。 (4) SARの導入例 日産自動車株式会社は、会社の持続的な利益をもたらす成長に対する取締役の意欲を一層高めることを目的とし、SAR型のインセンティブ報酬として、株価連動型インセンティブ受領権を導入している。 これは、権利行使日の前普通取引日における会社普通株式1株当たりの市場終値が下記行使価額を上回っている場合に、その差額を受領する権利として設計され、年間付与総数の上限、行使価額、権利行使可能期間(各権利付与日から 10 年を経過する日までの範囲内で、取締役会が定める)、行使条件及び適用期間及び権利付与日といった条件を株主総会決議に基づき取締役会が詳細な条件を決定する設定となっている。 また、各取締役が株価連動型インセンティブ受領権を実際に行使できる数は、被付与者に付与された権利の数を上限として、被付与者毎に設定される業績目標の達成度等の条件に応じて計算される。 2 ガバナンス面から見たメリット・デメリット インセンティブ報酬の交付物が金銭の場合は、支給のために現預金を用意しておかなければならないという面があるが、株式報酬の場合と異なり、株式の希釈化は生じない。 また、インセンティブ報酬としての金銭報酬のうち、株価連動型の場合は、役員と株主の利害が直接的に関連付けられるといえるが、株式市場や業界全体の状況といった個別の企業にとって外的要因といえる経済変動の影響を受けたり、個社の株式需給の歪みが生じた場合にその影響を受けたりするという側面がある。 一方、業績連動型の場合は、役員と株主の利害の関連付けが間接的になるという面があるが、個社にとってコントロール不能な上記外的要件や株式需給の歪みの影響を受けないという側面がある。 3 会社法上の視点 業績連動型金銭報酬及び株価連動型金銭報酬は、いずれも会社法上の報酬等(361条1項)に該当するため、定款に定めがある場合又は指名委員会等設置会社である場合を除き、株主総会の決議によって定める必要がある。 株主総会の決議方法としては、報酬の最高限度額を定める方法(361条1項1号)と報酬の算定方法を定める方法(361条1項2号)がある。 4 税法上の視点 平成29年度税制改正前は、中長期業績連動型賞与及び株価連動型役員報酬はいずれも損金算入要件を満たすことが困難であった。 しかし、平成29年度税制改正により活用が広がる可能性が出てきている。改正では、損金算入の対象となる業績連動給与の要件が緩和され、大幅に設計しやすくなった。 この平成29年度税制改正が実務にどのように影響を与えたかについては、今後の連載において具体的に触れる予定である。 5 会計上の視点 業績連動型の役員報酬については、「役員賞与に関する会計基準」において定めがある。すわなち、役員報酬は、確定報酬として支給される場合と業績連動型報酬として支給される場合があるが、職務執行の対価として支給されることに変わりはなく、会計上は、いずれも費用として処理される。 役員賞与は、経済的実態としては費用として処理される業績連動型報酬と同様の性格であると考えられるため、費用として処理することが適当であるとされる(「役員賞与に関する会計基準」12(1))。 また、当事業年度の職務に係る役員賞与を期末後に開催される株主総会の決議事項とする場合には、当該支給は株主総会の決議が前提となるので、当該決議事項とする額又はその見込額(当事業年度の職務に係る額に限るものとする)を、原則として、引当金に計上する(「役員賞与に関する会計基準」13)。 もっとも、中長期の目標を設定し、その達成度に応じて報酬額を決めるという設計の場合は、どの時点で会計上引当計上しなければならないかは、必ずしも明確ではない。 (了)
コーポレート・ガバナンス・システムに関する 実務指針(CGSガイドライン)の解説 【第4回】 「ダイバーシティ2.0行動ガイドラインについて」 PwCあらた有限責任監査法人 シニアアソシエイト 河合 巧 本シリーズでは、2017年3月31日に経済産業省から公表された「コーポレート・ガバナンス・システムに関する実務指針(CGSガイドライン)」を取り上げている。CGSガイドラインは、2015年6月から適用が開始された「コーポレートガバナンス・コード」(以下、CGコード)の内容を補完し、企業価値向上のための具体的な行動を示す目的で取りまとめられたものである。 今回は、CGSガイドラインから、CGSガイドラインの別添「ダイバーシティ2.0行動ガイドライン」を取り上げ、その概要を解説する。なお、文中の意見にわたる部分は筆者の私見であることを予めお断りする。 〔ダイバーシティ2.0行動ガイドラインの背景〕 これまで、安倍政権は発足時から働き方改革を重点施策に位置付け、この文脈でダイバーシティ推進の取組が関係省庁によって進められてきた。その中で、経済産業省は企業経営の視点からのダイバーシティに注目し、企業の競争力強化のため、性別、国籍、障がい等の属性を含め、個人が能力を発揮して企業価値創造に参画する「ダイバーシティ経営」を推進してきた。 徐々に企業の認知も進み、ダイバーシティ経営に取り組む企業こそ増えたが、実態は企業価値と直結しない段階にとどまるケースが少なくない。 そのような中、経済産業省は、平成28年に「競争戦略としてのダイバーシティ経営(ダイバーシティ 2.0)の在り方に関する検討会」(座長:北川哲雄 青山学院大学大学院 教授)を立ち上げ、あるべきダイバーシティ経営の考え方、ボトルネック、必要なアクションについて、企業、投資家、有識者等による議論を行い、その成果物として、報告書とともに、ダイバーシティ2.0行動ガイドライン(以下、本ガイドライン)を世に発信した。 本ガイドラインは、日本政府の強い問題意識の提示に始まり、ダイバーシティの効果、企業に求められる考え方やアクション、また、取組事例を整理した、ダイバーシティ経営の「指南書」といえる内容となっている。 〔ダイバーシティ2.0とは〕 ソフトウェアのバージョンの新旧になぞらえ、従来型の取組を「ダイバーシティ1.0」とし、それに対峙する概念として、経営戦略に紐付き、中長期の企業価値の創出に資する将来型の取組を「ダイバーシティ2.0」と定義している。 (出典:経済産業省「ダイバーシティ2.0行動ガイドライン」p3より) 〔コーポレートガバナンスにおけるダイバーシティ〕 そもそもダイバーシティは、ガバナンスとどのような関係があるのだろうか。 コーポレートガバナンス・コードに目を向けると、「多様性」という表現で、「女性活躍推進を含む社内の多様性の確保(原則2-4)」、及び「取締役会・監査役会の実効性確保ための前提条件(原則4-11)」が定められ、上場企業にとっては既に考慮すべきテーマの1つとなっている。 このコーポレートガバナンス・コードに呼応する形で、CGSガイドラインは取締役会の多様性のあり方について、以下のように示している(CGSガイドラインp27、p56)。 〔ダイバーシティ2.0実践のための7つのアクション〕 CGSガイドラインはガバナンスの観点からダイバーシティの有用性に触れたが、本ガイドラインは経営陣の取組、現場の取組、及び外部コミュニケーションまで広範な領域に焦点を当てている。 大上段に構えた内容に映るが、企業毎の状況に合わせてカスタマイズできる余地を残しつつ、ダイバーシティ経営の在り方を見直す際、土台となる視点を提示している点に意義がある。 (経済産業省「ダイバーシティ2.0行動ガイドライン 」p1を基に筆者作成) また、全社的に各取組の関連性を以下の図でまとめている。ともすれば、ダイバーシティの取組は特定の部門・部署に閉ざされている企業も多いが、本来は企業内部のみならず、外部ステークホルダーを考慮することが重要である。 ※画像をクリックすると、別ページでPDFファイルが開きます。 (出典:経済産業省「ダイバーシティ2.0行動ガイドライン」 p4より) 上述の7つのアクションのうち、アクション③ガバナンスの改革の具体的な取組として、取締役会の監督機能の向上、及び、取締役会におけるダイバーシティの取組の監督と推進が示されている。これは、CGSガイドラインにも反映されている。 (出典:経済産業省「ダイバーシティ2.0行動ガイドライン」 p10 より) ダイバーシティ2.0行動ガイドラインでは、具体的な取組事例も紹介されているので参考にされたい。 (出典:経済産業省「ダイバーシティ2.0行動ガイドライン」 p10 より) 〔おわりに〕 「働き方改革」の名の下で劇的かつ刻一刻と労働・雇用環境が変わる中、企業側の制約・負担が増えている。ダイバーシティは、このような様々な制約や負担に適応・対応していくためにも有効となる視点であり、手段でもある。 今回紹介した本ガイドラインを起点として、この目まぐるしい労働・雇用環境の変化の中、ダイバーシティ経営の視点を織り込みながら、自社の経営・実務の舵取りをどのように行っていくのか検討・実践していくことが、企業にとって有効だろう。 本解説シリーズの最終回となる次号(第5回)では、シリーズのまとめとして、その他の提言(取締役会機能の強化、役員人事(報酬)などを取り上げる予定である。 なお、CGSガイドラインの全容については、時系列的な経緯とあわせて本解説シリーズの【第1回】でご紹介しているので、ぜひ参照されたい。 (了)
海外勤務の適任者を選ぶ“ヒント” 【第3回】 「本当に求められる「コミュニケーション能力」とは」 中小企業診断士 西田 純 連載【第3回】となる今回は、 ◆そもそもコミュニケーション能力とは何なのか? ◆言語能力(英語力)はどの程度重要と考えるべきなのか? についてお話したいと思います。 1 外国人との業務コミュニケーションと言語力の意外なギャップ 専門家の間では半ば常識ですが、『英語ができること』と『仕事上で外国人とのコミュニケーションが上手くできること』は、必ずしも一致しません。 私がこれまでに仕事を通じて出会った事例では、専門学校卒、高校時代は英語が全く不得意、今でもサバイバル英語に自信がない、でも海外のお客さんとはすぐに打ち解け、海外出張に行けばその先々で友だちを作ってしまう、という営業マンがいました(Aさんとします)。 必ずしも小さくない会社の中堅社員だったのですが、一時期は会社の海外事業全体の実務総括を任されていました。さすがに言語的なハンディへの対策が必要だったということなのでしょう、彼の下には英語と日本語が堪能な中国籍の女子社員(Bさんとします)がいて、日常的なコミュニケーションをサポートしていました。 ここで根源的な問題を提起します。 なぜ英語のできないAさんが海外事業を任されていたのか? ということについて。 実は、Aさんの特質は、単に人懐っこいだけではありませんでした。 まず、専門学校以来職場で培った専門性や現場力が高く、何が問題なのか説明する能力に長けていました。 また、中堅社員なのに会社の財務状況を常に意識しており、自分が臨んでいる商談の成否が自社損益にどの程度影響するのかを常に把握しているなど、意思決定面で上司からの信頼を得ていたのです。 そして、人懐っこいだけに外交的で、日本語であればかなり巧みな話術を有していたことも見逃せないと思います。 2 企業が求めるコミュニケーション能力とは? ここで「企業が社員に求めるコミュニケーション能力」について考えてみたいと思います。 一言で言えば、顧客に信頼され、業者と円滑な交渉ができ、社内の労務管理や連絡調整を正確にこなす力、ということになると思います。上で参照した事例の場合、顧客との関係づくりはAさんが、顧客・業者を含む英語による連絡調整などはBさんが担当していたわけですが、現場における実際の問題認識と意思決定、Bさんに対する日本語での業務指示などは、Aさんが極めて円滑にこなしていたという事実があります。 そこまで見ると、企業=組織体としてのコミュニケーション能力を担保するために求められるのは、何も会話能力など表面的なコミュニケーションに関わる能力だけではなく、もう少し一般的な、業務能力に関わる部分が重要であることがわかると思います。 さらに海外勤務者の場合、これに加えて、現地スタッフを含む社内の連絡調整などをどうこなすか、という課題が見えてきます。 企業によっては海外拠点における管理方式を日本と同じにしていたり、極端な例では職場の共通言語を日本語にしているという事例もありますので、そういう場合は必ずしも英語でなくても構わない、ということになりますが、最低限やはり基礎的な連絡などは英語でこなす力が求められる場合がほとんどでしょう。 3 みておくべき点 ここまでお話してきたことを踏まえて、海外勤務者に求められるコミュニケーション力について、簡単に整理してみましょう。 (1) 伝わるコミュニケーションとは 普段、私たちは人の話を聞くとき、いくつかの要素を瞬時に判断します。それは、①誰が、②何を、③なぜ、④どこで・いつ(どんな場面で)、そして⑤どんなふうに言っているか、という5W1Hの視点から構成されています。 伝わるコミュニケーションは、これらの要素を過不足なく、遅滞なく提供してくれます。逆にこれらの要素がなかなか伝わってこず、質問しても明快に確認できないようだと、聞き手にとってストレスの元となります。 かつて、言語としての英語はとても上手な中東出身の方と仕事をしたことがあるのですが、いつまで聞いていてもこの視点(特に②何を、と③なぜ、の説明が終わらない)が明快にならず、ただ延々としゃべり続けるだけの英語に、ほとほと疲れ切ったことがありました(中東出身の方のすべてがそうだというわけではありませんので念のため)。 (2) 日本語能力が高い 私はこれまで長く英語に携わってきた中で、高校時代の恩師から言われた 本当に英語が上手い人は日本語も上手いのだ という言葉が強く印象に残っています。 確かに、上で述べた伝わるコミュニケーションのためのポイントを的確に表現する力、いわば論理構成力が優れた人であれば、使う言葉が英語と日本語のどちらであっても(注:十分な基礎的英語力があれば、という条件付きですが)おそらく伝えるべきことをしっかりと相手に伝えられるはずです。 候補者の人選においても、的確な語彙と簡潔な表現による日本語能力の確認は、外せない項目です。 (3) 一貫した視点を持つ 今、自分が見ていることが自分の仕事にとって是であるか非であるか、また自分が取り組んでいる仕事について会社はそれを是とすべきか否か。常にそのような視点を持って動けるようになるまでには、早い人で入社後数年の時間がかかるのが普通ではないかと思います。 その後さらに経験を積み、定点観測的に自らの取組みを評価できるようになると、その人の発言や行動には一貫性が伴うようになります。 この一貫性が、コミュニケーションでは上で述べた「①誰が」言っているのか、という要素を格段に強化してくれることになるのです。 (4) わかりやすい言い方ができる ②~⑤までの要素をどのように表現するか、というのも、コミュニケーション能力を測るうえで重要なポイントになります。 具体的に言うと、「【理由】なので【結論】である」、という論拠の提示、「AはBに比べて【分析対象】の面で【分析結果】という違いがある」、という比較分析、「Aは【調査開始時】から【調査終了時】まで【分析結果】という【結論】的な変化をした」、という変化の追跡などを簡潔に示せることは、その人の説明能力の高さを示すものです。 もしあなたの周辺に、上で述べた5W1Hの視点をストレスなく表現してくれる人がいたとすると、おそらくその人はこのような言い方を多用しているのではないでしょうか。 (5) 基礎的英語力 ここまで、候補者選びのためのコミュニケーション能力について、重要なポイントを説明してきました。審査項目としては順番が逆になるかもしれませんが、社内での簡単な連絡調整や会話など、海外勤務者にとってはイロハのイにあたるのが、基礎的英語力だと思います。 仕事を離れても、休日の買い物やオフタイムなどにおいても、大きなストレスなく日常生活を送るうえで、基礎的な英語力が求められる場面は少なくありません。 コミュニケーション能力を語るうえで忘れてはいけないポイントなので、最後に付け加えておきます。 4 人材育成上のポイント (1) 英語能力テストに囚われすぎず、馬鹿にもせず TOEICに代表される英語能力テストは、社会の隅々にまで知られるようになりました(TOEIC990点という得点のおかげで、私も営業的にはずいぶんと得をしているように思います)。 それだけ社会の中で基礎的英語力へのニーズが高いということだと思いますが、これまで述べてきたような視点を踏まえると、これら能力テストの成績ばかりを重んじるのは正しいやり方ではないことがお分かりいただけようかと思います。 むろん、社内共通語が英語で、上司であるあなたが上で述べた「語彙・表現・視点・言い方」を問題なく英語で評価できる、というような場合は別ですが、基礎的英語能力を評価するために、ある程度これらのテストを参考にするという考え方は合理的なものだと思います。 (2) 本人の意識を高めるには ぜひ今回の記事を参考資料にして、「コミュニケーション能力とは何か」「それを高めるための視点は何か」について説明してあげてください。顧客・業者そして社内に対するコミュニケーションの円滑化、それこそが海外勤務を成功させるための重要な要素であることを言い添えて。 5 意外と必要なのが絵心? 最後に1点、付け加えます。 最近感じることですが、会議などで多用されるパワーポイントなどのプレゼンテーションツールも、コミュニケーションを円滑化するためにはとても役に立ちます。 そういう意味では、イラストやフローチャートなどを見やすく加工する力、いわゆる絵心があるのも立派なコミュニケーション能力なのかな、と思います。 ビジュアルツールの効用に少しだけ触れて、今回のお話を終えたいと思います。 (了)