〈ポイント解説〉 役員報酬の税務 【第28回】 「『役員報酬』と『第二次納税義務』」 税理士 中尾 隼大 ○●○● 解 説 ●○●○ (1) 第二次納税義務の趣旨 第二次納税義務を定める国税徴収法は、昭和34年の全面改正にて大きく生まれ変わっている。具体的には、財産処分の方法として「譲渡」のみを第二次納税義務の対象としていた旧国税徴収法からその範囲が拡充され、いわゆる無償譲渡等が加えられた(※1)。 (※1) 吉国二郎他編『国税徴収法精解 第20版』(大蔵財務協会、2021)380頁。「無償譲渡等」の意義は以下要件1となる。 この無償譲渡等に関する第二次納税義務については、現在は国税徴収法39条に規定されており、以下に掲げる4要件の充足により第二次納税義務が適用されるとされている。 (※2) 「債務の免除その他第三者に利益を与える処分」は「必要かつ合理的理由」が必要であり、その判断は、本来の納税者と同一の責任を負わせるに値しないと評価できる別の法的理由の有無が分水嶺となると考えられる。拙著「再生計画に基づいて債務免除された法人に第二次納税義務が生じると示された事例」税務事例53巻7号(2021)93頁。 この趣旨は、財産の無償譲渡等が詐害行為に該当するケースが多いところ、訴訟手続きに拠らずとも手続きの簡略化が可能な点にある(※3)。また、上記全面改正時において、租税徴収制度調査会が答申にて、「形式的に第三者に財産が帰属している場合であつても、実質的には納税者にその財産が帰属していると認めても、公平を失しないときにおいて、形式的な権利の帰属を否認して、私法秩序を乱すことを避けつつ、その形式的に権利が帰属している者に対して補充的に納税義務を負担させることにより、徴税手続の合理化を図るために認められている制度である」と示している(※4)。 (※3) 金子宏『租税法(第23版)』(弘文堂、2019)166頁。 (※4) 租税徴収制度調査会「租税徴収制度調査会答申-附参考資料-」(1958)12・13頁。 すなわち、第二次納税義務は、国税を滞納する者が事実上納付不可能となっても、無償譲渡等を受けた者に第二次納税義務を負わせることによって、迅速かつ公平な税収の確保を図る制度であるといえよう。 (2) 役員給与との関係 役員給与が関係しうるケースでいえば、財務内容の悪化等により国税を滞納している法人が、役員に対して、交際費等や低額譲渡等により経済的利益を与えたり、役員退職給与として高額な支給を行ったり等のケースにおいて検討すべき問題となる。 というのも、役員報酬は職務執行の対価として支給されることが大前提ではあるが(【第20回】参照)、いわゆる「認定賞与」等に代表される(※5)、法人税の課税所得計算上において損金算入が認められない支給については、その職務執行の対価性が認められないものも存在し得るからだ。 (※5) 「認定賞与」は法律上の用語ではない。詳細は【第21回】参照。 この点、認定賞与と第二次納税義務の関係について、認定賞与が役員からの役務提供の対価とみる場合と、贈与の性格を持つと認められる場合があるとした上で、贈与の性格が認められる場合には国税徴収法39条による第二次納税義務が賦課されるという解説がある(※6)。 (※6) 橘素子『第二次納税義務制度の実務』(大蔵財務協会、2013)159頁。 なお、国税庁が公表する個別通達「第二次納税義務関係事務提要の制定について(以下、「個別通達」という)」は、役員に対する認定賞与と第二次納税義務の関係を明らかにしており、以下のように事実関係を重視する旨が示されているので、以下に確認する。 このように、役員に対して報酬を支給した場合、国税徴収法39条の適用の有無は、その支給の内容に拠って判断されることとなる。以下に、実際に役員給与を受けた第二次納税義務について争われた裁判例・裁決例を数点紹介したい。 (3) 取締役に対して第二次納税義務が賦課された事例 ① 解散を前提として取締役に多大な退職金を支給したところ、支給された取締役に第二次納税義務が賦課された事例(東京地裁平成9年8月8日判決(※7)) (※7) 判例タイムズ977号111頁、TAINS:Z888-0213。 本件は、問題となった退職金の金額について、取締役としての職務執行及び功労との対価的均衡を著しく欠くことから、国税徴収法39条の著しく低額の対価による財産の処分に該当するとされたものである。すなわち、地裁が行った退職金額の決定経緯に鑑みた判断は、上記個別通達と同様の判断であるといえるだろう。 なお、裁決例においても役員退職給与が争点となった事例がある。国税不服審判所平成29年5月10日裁決(※8)では、租税を滞納する法人が取締役に対して役員退職給与を支給した結果、当該法人が債務超過となったことを受け、債務超過相当額については無償譲渡に当たるとして第二次納税義務を賦課されている。 (※8) 裁決事例集未登載、TAINS:F0-8-071。 ② 役員賞与とされたものについて無償譲渡等とも認定し、第二次納税義務を課することは矛盾しないとされた事例(国税不服審判所昭和49年9月27日裁決(※9)) (※9) 裁決事例集9集31頁、TAINS:J09-4-01。 本件は、法人税法上賞与とされたものが国税徴収法上では無償譲渡等とされることにつき、矛盾しないと示された事例である。すなわち、賞与とされるものの中には対価性がなく贈与の性格を有するものもあることを示している。 本件は、現在でも認定賞与を検討する場面で参考となる裁決例である。 * * * 総じて、法人が取締役等の役員に支給する役員給与・役員退職給与に関して、職務執行の対価であるという性質が見出せないものについて、その法人に滞納国税があるような場合では、国税徴収法39条の適用可能性にも留意すべきであるといえよう。 (了)
基礎から身につく組織再編税制 【第30回】 「適格分社型分割を行った場合の分割法人の取扱い」 太陽グラントソントン税理士法人 ディレクター 税理士 川瀬 裕太 前回は、適格分社型分割を行った場合の分割承継法人の取扱いについて確認しました。 今回は、適格分社型分割を行った場合の分割法人の取扱いについて解説します。 1 資産・負債の譲渡 適格分社型分割があった場合の分割法人から分割承継法人への資産・負債の移転は、分割直前の帳簿価額による譲渡とされ、分割法人において譲渡損益は生じないこととされています(法法62の3①)。 2 適格分社型分割により譲渡した「減価償却資産」の取扱い 分割法人が、適格分社型分割により分割承継法人に減価償却資産を移転する場合において、分割事業年度に、その減価償却資産について分割の日までの減価償却費を計上したときは、その期中損金経理額のうち分割の日の前日を事業年度終了の日として計算した償却限度額に達するまでの金額は、分割法人で損金の額に算入されます(法法31②)。 ただし、期中損金経理額を損金の額に算入するためには、分割の日から2ヶ月以内に一定の届出が必要となります。 3 適格分社型分割により譲渡した「繰延資産」の取扱い (1) 償却費の損金算入 分割法人が、適格分社型分割により分割承継法人に繰延資産を移転する場合において、分割事業年度に、その繰延資産について分割の日までの償却費を計上したときは、その期中損金経理額のうち分割の日の前日を事業年度終了の日として計算した償却限度額に達するまでの金額は、分割法人で損金の額に算入されます(法法32②)。 ただし、期中損金経理額を損金の額に算入するためには、分割の日から2ヶ月以内に一定の届出が必要となります。 (2) 分割承継法人への移転 適格分社型分割により分割承継法人に移転することができる繰延資産は、次のとおりです(法法32④二、⑤、法令66、法規22)。 4 適格分社型分割により譲渡した「一括償却資産」の取扱い (1) 償却費の損金算入 分割法人が、適格分社型分割により分割承継法人に一括償却資産を移転する場合において、分割事業年度に、その一括償却資産について分割の日までの償却費を計上したときは、その期中損金経理額のうち分割の日の前日を事業年度終了の日として計算した償却限度額に達するまでの金額は、分割法人で損金の額に算入されます(法令133の2②)。 ただし、期中損金経理額を損金の額に算入するためには、分割の日から2ヶ月以内に一定の届出が必要となります。 (2) 分割承継法人への移転 適格分社型分割により分割承継法人に移転することができる一括償却資産は、次のとおりです(法令133の2⑦、法規27の19)。 5 適格分社型分割により移転する「貸倒引当金」の取扱い 分割法人が、適格分社型分割により分割承継法人に貸倒引当金を移転する場合において、分割事業年度に、期首から分割の日までの期間に貸倒引当金を計上したときは、その期中損金経理額のうちその期間の繰入限度額に達するまでの金額は、分割法人で損金の額に算入されます(法法52⑤⑥)。 ただし、期中損金経理額を損金の額に算入するためには、分割の日から2ヶ月以内に一定の届出が必要となります。 6 適格分社型分割があった場合に減少する「資本金等の額」、「利益積立金額」 適格分社型分割があった場合には、分割法人において資本金等の額及び利益積立金額は増減しません。 7 分割承継法人株式の取得価額 適格分社型分割により、分割法人が取得する分割承継法人株式の取得価額は、分割直前の移転資産の帳簿価額から移転負債の帳簿価額を減算した金額に付随費用を加算した金額とされています(法令119①七)。 8 具体例 〔前提〕 〔分割法人の移転仕訳〕 〇資産・負債 適格分社型分割の場合は簿価で移転することとなります。 〇減少する資本金等の額、利益積立金額 適格分社型分割の場合、資本金等の額、利益積立金額は減少しません。 〇分割承継法人株式の取得価額 移転資産の帳簿価額から移転負債の帳簿価額を減算して計算します。 ◆適格分社型分割を行った場合の分割法人の取扱いのポイント◆ 資産等の移転は、分割直前の帳簿価額による譲渡をしたものとされ、分割法人において譲渡損益は生じません。 事業年度の中途に適格分社型分割があった場合に、減価償却費等の期中損金経理額を分割法人において損金の額に算入するためには、一定の届出が必要となります。 分割法人において資本金等の額及び利益積立金額は増減しません。 適格分社型分割により、分割法人が取得する分割承継法人株式の取得価額は、分割直前の移転資産の帳簿価額から移転負債の帳簿価額を減算した金額に付随費用を加算した金額です。 (了)
Q&Aでわかる 〈判断に迷いやすい〉非上場株式の評価 【第24回】 「〔第5表〕課税時期前3年以内に取得した土地等及び家屋等の借家権控除の適用の可否」 税理士 柴田 健次 Q 経営者甲が甲株式を令和3年9月に後継者である乙に贈与する予定ですが、課税時期前3年以内に取得した土地及び家屋の状況は、下記の通りとなります。 (※1) 物件の所有者(オーナー)が、賃借人を維持したまま不動産の所有権を移転させること。 (※2) 税務上の耐用年数に基づき計算した減価償却累計額を控除した後の価額。 この場合において、甲株式会社の第5表「1株当たりの純資産価額(相続税評価額)の計算明細書」の資産の部に計上する「3年以内取得土地等」及び「3年以内取得家屋等」の相続税評価額及び帳簿価額はそれぞれいくらになるのでしょうか。 なお、甲株式会社は3月決算であり、消費税の計算においては税抜方式を採用しています。純資産価額の計算においては、直前期末方式(直前期末の資産及び負債の帳簿価額に基づき評価する方式)により計算するものとします。 A 第5表「1株当たりの純資産価額(相続税評価額)の計算明細書」の資産の部に計上する「3年以内取得土地等」及び「3年以内取得家屋等」の内訳は、下記の通りとなります。 ◆ ◆ ◆ ① 3年以内取得土地等及び3年以内取得家屋等の計上金額 評価会社が課税時期前3年以内に取得又は新築した土地及び土地の上に存する権利(以下「土地等」という)並びに家屋及びその附属設備又は構築物(以下「家屋等」という)の価額は、課税時期における通常の取引価額に相当する金額によって評価するものとされています。 この場合において、当該土地等又は当該家屋等に係る帳簿価額が課税時期における通常の取引価額に相当すると認められる場合には、当該帳簿価額に相当する金額によって評価することができるものとするとされています(評価通達185括弧書)。 課税実務上は、帳簿価額が通常の取引価額として認められない場合(買い急ぎや関連会社からの有利な価額による取得など適正な時価による取得として認められない場合)を除き、帳簿価額を基に評価することになります。帳簿価額が通常の取引価額として認められない場合には、不動産鑑定評価額等の合理的な方法によって時価を求めることになります。 ② 借家権控除の必要性 平成25年7月1日の裁決事例(TAINSコード:F0-3-394)において借家権控除の適用について、「借家権の設定に伴う建物及びその敷地利用の制約は、評価基本通達185括弧書に定める『通常の取引価額に相当する金額』の算定においても、同様に考慮することが合理的であると考えられることから、『通常の取引価額に相当する金額』を算定する場合においても、対象の土地及び建物が貸家建付地及び貸家に該当し、上記制約を考慮する必要があるときは、評価基本通達26及び93と同様の方法で貸家建付地及び貸家の価額を評価することが相当である」として、課税時期において現実に貸し付けられている場合には、借家権控除の必要性を説明しています。 また、東京国税局課税第一部 資産課税課 資産評価官の「資産税審理研修資料」(平成27年7月作成)の財産評価の審理上の留意点では、下記の通り記載がされています。 したがって、取得時の利用区分が自用地・自用家屋で課税時期の利用区分が貸家建付地・貸家である場合には、借家権控除を行うことができます。 ③ A土地及び家屋の計上金額 A土地及び家屋は、3年以内取得土地等及び家屋等に該当することになりますので、相続税評価額ではなく、通常の取引価額により評価を行います。したがって、直前期末の帳簿価額(土地100,000千円・建物47,872千円)を基に評価を行うことになりますが、帳簿価額は新築で購入した金額であり、自用地としての通常の取引価額となります。A土地及び家屋は、課税時期において貸し付けられており、貸家の制約を考慮する必要があるため、貸家建付地及び貸家の評価として、借家権部分を減額します。 したがって、A土地及び家屋の相続税評価額に計上する金額は、下記の通りとなります。 ④ B土地及び家屋の計上金額 B土地及び家屋は、3年以内取得土地等及び家屋等に該当することになりますので、相続税評価額ではなく、通常の取引価額により評価を行います。したがって、直前期末の帳簿価額(土地60,000千円・建物19,574千円)を基に評価を行うことになります。 B土地及び家屋は、オーナーチェンジにより購入したマンションであり、購入時の価額は、貸家建付地及び貸家としての価額であり、既に借家権控除が帳簿価額に反映されているため、A土地及び家屋のように減額はせずに帳簿価額をそのまま計上することになります。 ☆実務上のポイント☆ 3年以内取得土地等及び家屋等の計上金額を決定するためには、帳簿価額が通常の時価として認められない事情があるかどうか、購入時の利用区分が自用地・自用家屋又は貸家建付地・貸家のいずれであるかを確認することが重要となります。 (了)
相続税の実務問答 【第61回】 「相続開始の年に被相続人から贈与を受けた場合の贈与税の申告(相続税額が算出されない場合)」 税理士 梶野 研二 [答] 被相続人から相続開始の年に財産の贈与を受けた場合、その贈与を受けた人が、その被相続人からの相続又は遺贈により財産を取得したときには、その贈与により取得した財産の価額は、相続税の課税価格に加算され、贈与税の課税価格には算入されません。 あなたは、令和3年3月にお母様から現金200万円の贈与を受けましたが、5月にお母様がお亡くなりになられ、お母様の遺産を相続されたとのことです。あなたの場合、お母様から贈与を受けた現金200万円は相続税の課税価格に加算されることとなり、一方、贈与税の課税価格には算入されません。したがって、納付すべき相続税額が算出されないことから相続税の申告書を提出しないとしても、贈与税の申告の必要はありません。 ※画像をクリックすると、別ページで拡大表示されます。 ● ● ● ● ● 説 明 ● ● ● ● ● 1 贈与税の申告義務と相続税における相続開始前3年以内の贈与加算の関係 前回説明したように、被相続人から相続又は遺贈により財産を取得した者が、当該被相続人の相続開始の日前3年以内に当該被相続人から財産の贈与を受けた場合には、相続税法第19条第1項の規定により当該贈与財産の価額は、相続税の課税価格に加算されるとともに、当該財産の贈与に対して課された贈与税額は相続税額から控除することとされています。 一方、相続又は遺贈により財産を取得した者が相続開始の年に当該相続に係る被相続人から贈与により取得した財産の価額で相続税法第19条の規定により相続税の課税価格に加算されるものは、同法第21条の2第4項の規定により贈与税の課税価格に算入しないこととされています。 この相続又は遺贈により財産を取得した者が相続開始の年に当該相続に係る被相続人から贈与により取得した財産の価額で相続税法第19条の規定により相続税の課税価格に加算されるものは、贈与税の課税価格に算入しないとの相続税法第21条の2第4項の定めは、当該贈与により取得した財産の価額を相続税の課税価格に加算した上で相続税額を計算した場合に、相続税の課税価格の合計額が相続税法第15条第1項に定める遺産に係る基礎控除額を下回ることから、相続税額が算出されないときにおいても適用されます。 なお、相続税の申告書の提出は同法第21条の2第4項の規定の適用要件とはされていませんので、納付すべき相続税額を0円とする相続税の申告書を提出する必要もありません。 2 ご質問の場合 あなたは、令和3年3月にお母様から現金200万円の贈与を受けましたので、この贈与について(この他にあなたが令和3年中に贈与を受けた財産があれば、その価額も合計したところで)、令和4年2月1日から3月15日までの間に令和3年分の贈与税の申告を行い、算出された贈与税を納付しなければならないはずでした(仮に、令和3年中にあなたが贈与を受けた財産の価額が200万円だけであるとすると、納付すべき贈与税額を90,000円とする贈与税の申告が必要となります)。 しかしながら、お母様が令和3年5月にお亡くなりになり、あなたはその相続によりお母様の財産を相続することとなりました。 したがって、あなたが、お母様の相続開始前3年以内である令和3年3月にお母様から贈与された現金200万円は、相続税法第19条第1項の規定により相続税の課税価格に加算されます。あなたの場合、この200万円を相続財産の価額に加算したとしても、相続税の課税価格の合計額が基礎控除額3,600万円(3,000万円 + 600万円 × 1人)に達しないため納付すべき相続税額は算出されないとのことですが、その場合であっても、お母様の相続開始の年である令和3年中にお母様から受けた贈与については、相続税法第21条の2第4項の規定により、贈与税の申告は必要ありません。つまり、お母様から現金200万円の贈与を受けたことに対する相続税及び贈与税の負担は生じません。 なお、同法第21条の2第4項の規定を適用するために、あえて納付すべき相続税額を0円とする相続税の申告書を提出する必要はありません。 (了)
居住用財産の譲渡損失特例[一問一答] 【第38回】 「新築分譲マンションの場合の取得日とその所有期間」 -所有期間5年超要件に係る取得日の判定- 税理士 大久保 昭佳 Q Xは、6年前の3月1日に建築中の分譲マンションの売買契約を締結し、マンション完成直後の5年前の3月2日に引渡しを受けました。 親子3人で居住の用に供していたものの、子供が成長し、そのマンションは手狭となったことから、本年4月5日に譲渡しました。多額の譲渡損失が発生し、銀行で住宅ローンを組み、本年8月に新たに戸建を購入しました。 譲渡物件に係る所有期間5年超以外の他の適用要件が具備されている場合に、Xは「居住用財産買換の譲渡損失特例(措法41の5)」を受けることができるでしょうか。 A 譲渡年である本年1月1日における所有期間が5年以下のため、Xは、「居住用財産買換の譲渡損失特例」を受けることができません。 ●○●○解説○●○● 「居住用財産買換の譲渡損失特例」は、譲渡年の1月1日においてその所有期間が5年を超えるものであることが、その適用要件の1つとされています(措法41の5⑦一) 本事例における譲渡マンションの取得日は、契約締結日なのか、それとも引渡し日なのかで、その所有期間5年超要件に係る是非が分かれることになります。 資産の取得の日については、契約締結日に存在しない資産又は売主が所有していない資産については、その契約締結日をもって資産の取得の日と解することはできません。(所基通33-9(資産の取得の日))。 したがって、本事例の場合、当該マンションの引渡しを受けた日が取得の日となり、譲渡年である本年1月1日における所有期間が5年以下ですから、Xは、「居住用財産買換の譲渡損失特例」を受けることができません。 なお、「特定居住用財産の譲渡損失特例(措法41の5の2)」についても、譲渡資産の所有期間に係る5年超要件が同様に定められています(措法41の5の2⑦一)。 おって、戸建の請負契約の場合も、その契約締結日に存在しない資産であることから、新築分譲マンションの場合の取得の日と同様に判定されることに注意が必要です。 (了)
〔会計不正調査報告書を読む〕 【第115回】 アジア開発キャピタル株式会社 「特別調査委員会調査報告書(2021年6月21日付)」 税理士・公認不正検査士(CFE) 米澤 勝 【アジア開発キャピタル株式会社特別調査委員会の概要】 【アジア開発キャピタル株式会社の概要】 アジア開発キャピタル株式会社(以下「ADC」と略称する)は、1922(大正11)年2月7日設立。創業時は倉庫業、運送業を営んでいたが、2004年頃から投資ビジネスに参入し、現在では投資事業、金融事業を主たる事業としている。連結売上高1,055百万円、連結経常損失802百万円、従業員数49人(いずれも訂正前の2020年3月期実績)。会計監査人はアスカ監査法人(2021年4月13日退任)、監査法人アリア。東京証券取引所2部上場。本店所在地は東京都中央区。なお、ADCのホームページの「会社概要」トップには次のような記載がある。 ADCの子会社である株式会社トレードセブン(以下「T7」と略称する)は、2014(平成26)年8月1日設立。質屋事業、古物買取販売事業を営む。2017年11月、ADCは、質屋事業及び古物買取販売事業をグループの中核事業として位置付け、T7を完全子会社化した。 株式会社TS Project(以下「TP」と略称する)は、2018(平成30)年10月30日、T7が全額出資して、蓄電池取引に特化したSPCとして設立。2020年12月にT7が吸収合併して解散した。 【調査報告書の概要】 1 第三者委員会設置の経緯 2021年4月9日に公表した「第三者委員会の設置に関するお知らせ」で、ADCは、その設置の経緯について、次のように説明していた。 ADCは、子会社であるT7を通じてADC元取締役2名(元代表取締役社長の網屋信介氏と元取締役の髙瀬尚彦氏)が関係する複数の会社との間に不可解かつ不適切とも思われる取引が多数実在していることを社内調査によって確認したと同時に、会計処理が不適切に行われていたのではないかという疑義も発覚したため、当該不適切会計処理の事実関係解明及びその原因分析、並びにそれに類似する取引の有無の調査を行い、全容解明のために、第三者委員会の設置について決議したものである。 2 第三者委員会を解散して特別調査委員会を設置することとなった経緯 ADCが、2021年4月28日付で公表した「第三者委員会の解散及び特別調査委員会の設置に関するお知らせ」によれば、同年4月9日に設置された第三者委員会(以下「旧委員会」と略称する)は、同年4月21日、元取締役2名の代理人から、旧委員会からの元取締役2名に対する連絡については代理人が対応するので、直接の連絡は控えてほしいという意思表示を受けた上で、「①旧委員会の4人の委員のうち3人の委員が同一の法律事務所に所属している場合、及び、②本件疑義に関連してADCが行っている行為に対するADC元取締役からの仮処分命令申立手続に、仮に旧委員会の委員が関与している(いた)場合は、日本弁護士連合会が公表している「企業等不祥事に関する第三者委員会ガイドライン」(以下「日弁連ガイドライン」という)の趣旨に反する」という旨の通知を受領した。 旧委員会は、ADCから独立した公正中立な立場から構成されており、ADCの仮処分命令申立手続に関与している(いた)利害関係者にも該当していないため、調査・検証の過程・結果等について疑義を生じさせるものではないものの、本件嫌疑に関する調査を実施する上で重要なヒアリング対象となる元取締役2名から疑義を呈されたことで、①旧委員会による両名に対するヒアリングが実現困難になること、及び、②旧委員会調査報告結果の独立性、公平性・中立性について疑義を呈されることが予想されるとして、旧委員会を解散し、以後の調査を新たに発足する特別調査委員会に委ねることを決定したと説明している。 同時に、ADCは、第三者委員会を解散し、特別調査委員会に調査の続行を委ねる理由について、「日弁連ガイドライン」において求められる「類似案件」に対する調査を調査対象から除外し、調査対象をT7の売上にかかる会計処理に限定する趣旨にあるとして、調査範囲を限定したことを開示している。 3 資金循環取引の手口 特別調査委員会が調査対象とした蓄電池売買取引は合計18件。うち15件は、T7が蓄電池仕入のための前渡金名目で中間商流会社の株式会社インクリージング・アソシエイツ(調査報告書上の表記は「IA」)又は一般社団法人日本中小企業金融サポート機構(同「KS」)及び合同会社アドバイザー(同「GA」)を通じて、製造調達会社である有限会社エム・シー・シー・インターナショナル(同「MC」)に支払われる一方、T7はエンドユーザーとの間に入ったD-LIGHT株式会社(同「DL」)から売買代金を受け取るというスキームであった。 他の3件は、T7の位置にTPが入り、株式会社ティーオーツー(調査報告書上の表記は「TO」)に対して支払った前渡金が、MCに支払われる一方、DLから売買代金を受け取るというスキームであった。 4 取引に実体がないと判断した根拠 特別調査委員会は、ADC及びT7、TPにおいて、蓄電池の売買取引であり、製造会社から最終消費者まで売買契約が連鎖していることを前提としていたが、調査の結果、実際には、蓄電池の現物の納品はなされておらず、かつ、資金が環流している取引(いわゆる資金循環取引)であったと結論づけ、その認定根拠として、次の4点を挙げている。 (1) エンドユーザーによる蓄電池取引の否認 調査委員会による書面の照会に対して、西日本高速道路株式会社(NEXCO西日本)(調査報告書上の表記は「NXN」)及びその100%子会社である西日本高速道路サービス・ホールディングス株式会社(調査報告書上の表記は「NX」)は、本件蓄電池取引が行われていた期間(2017年11月から2019年4月)において、DLとの間で蓄電池取引の事実はないと回答した。 (2) 蓄電池の製造者による製品供給が疑わしいこと DLがT7を蓄電池取引への参加を勧誘した際に提示したパンフレットの中に、今回の対象商品となった蓄電池の製造元は日本捜索光研株式会社(調査報告書上の表記は「NS」)とされていが、同社は、2014年10月に株式会社サーチライトジャパン(調査報告書上の表記は「SJ」)に商号を変更した上、2018年10月17日に東京地方裁判所において破産手続開始決定を受けていることが確認されており、同社が本件蓄電池取引にかかる毎月85台の蓄電池を安定的に供給していたことは極めて疑わしいことが認められた。 (3) DL鬼倉達矢氏(調査報告書上の表記は「OT氏」)自身が蓄電池現物の取引の不存在を認めていること 特別調査委員会による、DL鬼倉達矢氏に対する質問状及びヒアリングに対し、同氏は、本件蓄電池取引において蓄電池現物の取引は存在せず、したがって、商流の最下流に位置するNXによる発注及び物品受領も存在せず、また、商流の最上流に位置する製造会社も存在しない旨を認める回答を行った。 (4) 資金がMCからDLに還流していたことについてDL鬼倉達矢氏が認めていること 同じく、特別調査委員会によるDL鬼倉達矢氏に対する質問状及びヒアリングに対し、同氏は、本件蓄電池取引が、DLの資金繰りの改善を目的とする取引の一部であり、MCからDLに資金が還流されていることを認める旨の回答を行った。 5 特別調査委員会による原因分析(調査報告書54ページ以下) 特別調査委員会は、T7及びADCの役職員が資金循環取引に対して意図的に関与した事実は認められなかったと結論づけながら、資金循環取引を了知できなかった原因について、DLが種々の工作を行っていたことに加えて、T7やADCのガバナンスや内部統制の整備・運用状況等が十分でなかったことも発生原因であるとして、次のようにまとめている。 なお、特別調査委員会は、「取引開始時の調査不足」に関連して、追加的な調査方法を例示しているので、引用しておきたい。 〈追加的な調査方法例〉 6 再発防止のための提言(調査報告書60ページ以下) 特別調査委員会は、調査により明らかとなった不適切な会計処理とその原因を踏まえた上で、再発防止策の大枠として、次のように提言をまとめている。 外部調査委員会は、「1 経営者リテラシーの向上」の中で、「(2) 一般的会計不正事例に関する知識の補充」について、次のように言及している。 この指摘の中、脚注で引用されているのが、証券取引等監視委員会事務局による「開示検査事例集(令和元年10月)」の監視委コラム「架空取引(資金循環取引)の気付き(20ページ)」であった。調査委員会はこのコラムを引用しながら、「典型的資金循環取引の取引要素」を次のように要約している。 【調査報告書の特徴】 ADCは、特別調査委員会による調査報告書で匿名(イニシャル表記)にしている取引関係者について、同日付で公表した別のリリースで、すべて実名を開示している。これだけでも驚きなのだが、この「本日付東証適時開示「特別調査委員会の調査報告書受領に関するお知らせ」についての補足(以下「6月22日付補足」と略称する)」には、ADC元取締役2名が、架空取引に関連して、金銭を受領していたことにまで言及している。こうした調査は、特別調査委員会の調査範囲に含まれておらず、当然、この言及に関しては、ADCが設置した特別調査委員会が認めたものではない。 また、ADCが開示しているように、同社は、3月23日に、金融庁証券取引等監視委員会事務局開示検査課(開示検査課)より立ち入り検査を受けており、本稿をまとめている時点で、検査結果についてのリリースは出ていないため、検査結果も気になるところである。 そもそも、ADCと元代表取締役社長網屋信介氏と元取締役髙瀬尚彦氏とは、どのような関係であったのか。時間を少し遡って見ておきたい。 1 網屋信介氏の代表取締役就任の経緯 ADCの有価証券報告書の記載によれば、元衆議院議員で、2回目の選挙に落選した後、株式会社エス・エー・コンサルティングを設立して代表取締役に就任していた網屋信介氏が、ADCの顧問に就任したのが2015年12月。その翌年1月にはADCの代表取締役社長に就任している。その経緯については、「当社連結子会社である株式会社トレードセブンのグループ化から今回の事業撤退までの経緯に関する補足説明(以下「3月10日付補足説明」と略称する)(※)」では、次のように説明されている。 (※) なお、本リリースの当初公開日は2021年3月10日であるが、現在は、2021年4月9日に公表された「訂正版」だけがADCのサイトで公開されている。 ところが、就任早々、網屋氏は、当時まだADCとは資本関係のなかったT7との間で利益相反行為に該当する取引を主導していたことが、「3月10日付補足説明」で開示されている。「3月10日付補足説明」は、網屋信介氏側の申立てにより、東京地方裁判所から「投稿記事のうち下線部分を仮に削除せよ」との仮処分決定が3月31日付でなされたため、現在は、訂正後のものだけが公表されているようである。 2 監査法人による取引内容の確認 資金循環取引(架空循環取引)が発覚するたびに、「会計監査人は何を確認していたのか」という批判的な見解が示されることは多い。上述のとおり、特別調査委員会も引用している証券取引等監視委員会事務局による「開示検査事例集(令和2年8月)」でも、「架空取引(資金循環取引)の気付き」と題された「監視委コラム」という記事の中で、こう解説されている。 ADCの会計監査人であるアスカ監査法人は、この取引について、どのように実在性の確認を行っていたのかを、調査報告書から見ておきたい(調査報告書44ページ以下)。 特別調査委員会は、調査の結果、アスカ監査法人が、書類上のやり取りだけで売上計上がなされることを危惧し、取引の実在性について十分な監査手続を実施する必要性を認識しており、当時取締役であった髙瀬尚彦氏にもその旨を伝え、一定の注意喚起を行っていたことを認めている。さらに、特別調査委員会に対するアスカ監査法人の回答では、蓄電池取引に関して、追加の監査手続として、複数の商流参加者との面談と証憑閲覧を行ったことで、取引実在性に重大な疑義はないものと認識したということであり、蓄電池現物については、網屋氏・髙瀬氏に蓄電池現物を見たいと要請したが、直送なので蓄電池現物は見られないとの説明を受けて、被監査会社のみならずその取引先に対してまでも往査を実施し、インタビューを行い、外部証拠を入手しており、これ以上の調査は困難であったとの見解を示しているようである。 アスカ監査法人は、商品の実在性確認について、証券取引等監視委員会が指摘するような「商品の実在性の確認は疎か」になっていたとまでは言えないものの、「直送取引」の壁に阻まれてしまったと評価できよう。そういった経緯があったからこそ、アスカ監査法人は、資金循環取引発覚後の4月13日に、会計監査人を退任した(「会計監査人の異動及び一時会計監査人の選任に関するお知らせ」参照)と考えられる。 3 ADCによる独自調査結果の開示 上述のとおり、ADCは、調査報告書公表と同時に、「6月22日付補足」を公表した。A4版で3ページのリリースのうち補足説明に該当する2ページの内容を簡単にまとめておきたい。なお、残りの1ページは、「特別調査委員会「調査報告書」における仮名と実名の対応表」に充てられている。 いずれも、ADCの主観的な見解であり、第三者の調査結果に基づかないものであり、名前が挙がっている関係者からの反論も予想されるところではあるが、外部調査機関による調査結果に補足情報を公表するという異例の展開となった本事案の特殊性が表れたリリースであることから、内容をまとめた次第である。 (了)
給与計算の質問箱 【第19回】 「主たる給与の支払者が交代した場合の注意点」 税理士・特定社会保険労務士 上前 剛 Q X社の従業員Aは6月30日まで正社員でしたが、7月1日からは週10時間程度のパート勤務になりました。また、AはX社と並行してY社でも勤務しており、Y社においては6月30日まで週10時間程度のパート勤務でしたが、7月1日からは正社員になりました。給料はX社、Y社ともに末日締の翌月25日支給です。 X社、Y社それぞれにおけるAの給料計算等の注意点があれば教えてください。 A 注意点は以下のとおりである。 * * 解 説 * * 1 源泉所得税 源泉所得税に係る注意点は次のとおり。 2 労災保険 労災保険に係る注意点は次のとおり。 3 雇用保険 雇用保険に係る注意点は次のとおり。 4 社会保険(健康保険、介護保険、厚生年金保険) 社会保険(健康保険、介護保険、厚生年金保険)に係る注意点は次のとおり。 5 源泉徴収票の取扱い 源泉徴収票の取扱いに係る注意点は次のとおり。 (了)
社長のためのメンタルヘルス 【第3回】 「メンタルへルスの多様性と診断名・原因の具体例」 特定社会保険労務士 第一種衛生管理者 産業カウンセラー 寺本 匡俊 1 今回の趣旨 本連載の第1回では、連載全体の考え方や用語の概要を示した。第2回では社長が受けるストレスの強さや、経営者の立場上、病状や対策につき周囲に気軽に相談するのも容易ではないなど、心身ともに強い社長といえどもメンタル不調に無縁ではないことや、予防の重要性を示した。 今回は、メンタル不調という概念の広さや多様性を、診断名や原因の具体例で確認し、改めて「メンタルが弱いから不調になる」という発想の危うさを見直すことにより、社長のためのメンタルヘルスの重要性を再認識することを目的とする。 2 「こころの病気」という表現について 職場において発生するメンタル不調や精神疾患の中で、もっとも多いと言われているのが、「うつ状態」、「うつ病」であるというのは定説になっているかと思う。「うつ」は確かに感情が乱れ、やる気を失うなどの症状が出るため、一般向けの報道やネットの情報においては「心の病」、「こころの病気」というような表現が使われることが多い。確かに、心を病む。一方で、医学・薬学の対象となる(科学的な知見にもとづく診断、服薬、静養等が必要)なのは、「こころ」ではなく、脳という内臓である。 メンタル不調、精神疾患は脳の不調、脳の病気であり、それは狭い意味での「心を病む」だけとは限らない。具体例は、厚生労働省の特設サイト「みんなのメンタルヘルス」でも確認できる。 3 世界的な基準 上記サイトの文中にもあるように、「こころの病気についてのおもな診断基準として、アメリカ精神医学会が作成したDSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)や世界保健機関によってつくられたICD(国際疾病分類)があり、日本でも広く使われて」いる。行政も医学会も、DSMとICDの両者を用いている。 ここでは、後の回で言及する労災の「心理的負荷による精神障害の認定基準」(厚生労働省「精神障害の労災認定」参照)が国連WHOのICD(International Classification of Diseases)に準拠していることから、こちらを参照する。現時点で、ICDは第11版を数えており(ICD-11)、一方、和訳版が商業出版されているのは、2019年の改訂まで使われていたICD-10である。以下、ICD-10の訳語を用いる。 ICDは疾病全般を取り扱っており、アルファベットの頭文字で、例えば「A」のグループは「感染症・寄生虫」であるが、ここではメンタル不調・精神疾患のグループである「F」、すなわち「精神および行動の障害」の内訳をみる。なお、ICDの訳語における「障害」という用語は、障害者手帳や障害者雇用といった法律用語、行政用語の対象となる状態に限定されず、英語では「disorders」すなわち「故障」、「不具合」であり、軽度で治るものも含む広い概念であることに留意願いたい。 4 ICD-10における具体例 上記の精神疾患の労災認定基準に、ICD-10の「F」グループの項目表があり、これらを見るだけでも、「心の病」という解釈だけでは収まり切らないものであるのが分かるが、ここでも「社長とて無縁ではない」ことを強調するため、メンタル不調・精神疾患は、症状も原因も、多種多様であることを確かめる。 (出典) 厚生労働省「精神障害の労災認定」2ページ。 以下、「ICD-10 精神および行動の障害」から、比較的、一般にも知られている「診断カテゴリ」という10項目(上表のF0からF9)のうち、いくつかを例示する。社長のためのメンタルへルスは、従業員と同様これら全ての未然防止、早期発見、再発・再燃の防止を図るものであり、その手段や心がけも多様である。 例えば、F0には「アルツハイマー病型認知症」が含まれ、また脳損傷によるもの、すなわち交通事故等で頭を強く打っても、脳の病気になるおそれがある。F1には「依存症候群」がある。不法薬物やアルコールの依存症も含まれ、また、ゲーム依存症がICD-11で加わった。特にアルコール依存は、身近な問題として起こり得ると考えるところ、別の回にて稿を改めて詳述する。 本連載において重視するのは、F3の「気分(感情)障害」及びF4の「神経症性障害、ストレス関連障害および身体表現性障害」である。読者ご自身又は周囲において、これらの症状に類するものを訴える人を全く見たことがないということは、まずないと思う。 F3の「気分(感情)障害」が、文字通りの「心の病」の代表例だろう。うつ病や「双極性感情障害」(躁うつ病)が含まれる。これらもICDでは微細に分類されているが、本稿は医学的な解説が目的ではないため、概略で進める。 F4の「神経症性障害、ストレス関連障害および身体表現性障害」については、かつてある精神科医の講義の中で、「一言でいえば昔、ノイローゼと呼んでいたもの」という表現があったのを覚えている。他の人にとっては、あるいは、本人が強いストレスもなく健康なときには恐れる対象ではないはずのものに恐怖感を抱き、生活に支障が出るようなイメージのグループで、例えば高所恐怖症もこれに含まれる。 ときどき報道などで見かけるものとしては、強迫性障害(火元や施錠が気になって外出途中に何回も自宅に戻るなど)、解離性障害(症状の1つに解離性健忘、いわゆる記憶喪失)、適応障害(特定のストレスからくる苦悩など)等がある。 以上いずれも日常生活の随所に、原因となり得るものが潜んでおり、繰り返すが、リスクは労使を問わない。転倒して怪我をしても、暴飲暴食を繰り返しても、内臓の病気が長引いても、誰もがメンタル不調を招く恐れがある。 今回は「原因」(ストレス要因)及び「結果」(ストレス反応)の多様性に着目した。次回は「対策」すなわち「予防」についての考え方を整理する。 (了)
税理士が知っておきたい 不動産鑑定評価の常識 【第19回】 「税務で「ゼロ評価」される土地に鑑定ではなぜ価値がつくのか」 不動産鑑定士 黒沢 泰 1 はじめに~賃借権と使用借権の相違 税理士の皆様は十分にご承知のことと思いますが、最初にこの2つの権利の根本的な相違を述べておきます。 使用借権とは、使用貸借契約(無償)に基づき他人の物を使用収益することのできる権利です(民法第593条、下線は筆者によります)。 次に、賃貸借とは、当事者の一方がある物の使用及び収益を相手方にさせることを約し、相手方がこれに対してその賃料を支払うこと及び引渡しを受けた物を契約が終了したときに返還することを約することによって、その効力を生じます(民法第601条)。 このように、賃貸借と使用貸借の基本的な相違は、使用収益の対価が有償か無償かという点にあります。このような性格から派生し、使用借権の場合、建物所有を目的とする契約であっても借地借家法の適用がなく、しかも存続期間は借主一代限りのものであって(=借主の死亡によって消滅します)相続の対象ともならず、譲渡性も認められていません。この他にも、いくつもの相違点があります。 2 相続税の財産評価では 税理士の皆様はお得意の分野だと思いますが、相続税の財産評価では使用借権の価額は評価しないものとして扱われていることは周知のことと思います(国税庁ホームページ掲載の「質疑応答事例(宅地の評価単位-使用貸借)」のなかにこの趣旨が記載されています)。 また、以下は個別通達「使用貸借に係る土地についての相続税及び贈与税の取扱いについて」(昭和48年11月1日付直資2-189)の一部を抜粋したものです。ここにおいても使用借権の価額は評価しない旨述べられています(下線は筆者によります)。 税務においてこのような取扱いがなされるのは、使用借権が(親子・親族間のような)相互の信頼と恩恵を基に成立し、他人には譲渡できず、契約期間が満了しても法定更新の制度はなく、借主の死亡により効力を失うといった脆弱な権利であることによるものと推察されます。税務に携わる方々からすれば、このような考え方はきわめて合理的であり、一理あるといえるでしょう。 3 判例や鑑定評価では 税務において合理的な内容でも、税務を離れた日常生活や争いごとの生ずる世界では、その常識がそのまま通用しなくなることがあります。それは、例えば次の例をみても明らかなことです。 (1) 最高裁平成6年10月11日判決(集民第173号133頁) 本件事案は、土地を使用貸借で借りた人がその上に建物を建築し、これを他の人に賃貸していたところ、借家人の失火により建物が消失したケースです。建物の賃貸人は、借家人に対して建物本体の価格に相当する額だけでなく、使用借権の価値に相当する額(=土地使用に係る経済的利益に相当する額)を請求したところ、借家人がこれを受け容れなかったことから争いとなりました。 最高裁は建物の賃貸人の主張を認め、賃貸人は借家人に対し、当該建物の焼失による損害として、焼失時の建物の本体の価格と土地使用に係る経済的利益に相当する額とを請求することができる旨判示しています。 なお、当該判決の背景にある考え方は次の判決文(原文のまま)にも垣間見られます。 なお、当該判決では、借地権割合の3分の1にほぼ近い割合(更地価格の5%)をもって使用借権の価値を認定しています。 (2) 鑑定評価では 鑑定評価においても、次の理由により使用借権にもある程度の価値を認めていることが多いといえます。 〈使用借権に価値を認める理由〉 その際の参考指針として、公共用地の取得に伴う損失補償基準(いわゆる用対連基準)の考え方がしばしば引き合いに出されます。この基準では、使用借権の割合は借地権割合の3分の1程度を標準とするものとされています。 また、現実面に目を向けた場合、使用貸借契約により建物所有を目的として土地を貸し渡した貸主が、契約期間内に売却や自己使用等の必要により明渡しを求める場合、使用借権の消滅のため、金銭の授受を行っている例が多いといえます(その意味で、補償的な側面も有しています)。 以上の点を考慮すれば、使用借権といえどもある程度の経済的な価値を認めざるを得ないのが実情です。 4 まとめ 使用借権においても、借主は定められた期限が到来するまで使用貸借の目的物を無償で使用収益できるという経済的利益が存します。鑑定評価ではこれを根拠に経済的価値を認めて評価しているのが一般的です。税務の見方と鑑定評価の見方の相違がこのような面にも表れていることに留意が必要と思われます。 (了)
事例で検証する 最新コンプライアンス問題 【第19回】 「地面師事件とコンプライアンス体制の充実(下)」 弁護士 原 正雄 前回に続き、地面師事件においてコンプライアンスの観点から参考となる論点をピックアップし、解説を行う。 1 専門家からの助言 (1) 司法書士からの助言 本件不動産の売買契約の成立から数日後、東京マンション事業部は、司法書士からメールで本件不動産について仮登記手続が完了した旨の報告を受けた。同メールには「提出書類に不備はないことを法務局が判断したことになるが、形式的審査の結果にすぎないので、本人性を疑う場合にはより踏み込んだ調査をする必要がある」旨が記載されていた。 (2) 内容証明郵便 2017年5月、S社に、本件不動産の所有者X氏の名義で4通の内容証明郵便が届いた。「自身(X氏)は長期間入院中で面会謝絶であって売買契約には立ち会えず、売買契約は締結していない。仮登記の申請に用いられた印鑑は偽造である。よって、本件不動産の仮登記の抹消を求める」旨の内容であった。X氏の住所としては、空き家である本件不動産の住所が記載されているだけで、連絡先は不明であった。これらはX氏の弟が出状した書面であった。 内容証明郵便は、法務部からマンション事業本部と東京マンション事業部に共有されたが、不動産部には共有されなかった。 (3) 弁護士からの助言 上記を受けて、法務部は東京マンション事業部に「騙されている可能性がある」と指摘した。東京マンション事業部は、本人確認済みと回答しつつ、本人確認を改めて行うことを検討した。 東京マンション事業部は、弁護士から「X氏の昔からの知人などへの写真による本人確認や、建物の内覧を実施すべき。また、以下の資料を集めるべき」旨の助言を受けた。 (4) 司法書士からの再度の助言 上記4通の内容証明郵便うち3通は、本件不動産に仮登記を設定した司法書士にも送付されていた。 同司法書士は、内容証明郵便が自ら宛に送付されたことに驚いた。登記を申請したのが誰かを知ることができるのは、原則として所有者本人に限られるためであった。同司法書士は、真の所有者が内容証明郵便の作成に関与している可能性があると考えた。そこで、東京マンション事業部の営業次長に、「X氏に会って事実確認した方がよい」と助言した。 (5) マンション事業本部と東京マンション事業部の対応 しかし、マンション事業本部と東京マンション事業部は、内容証明郵便を本件不動産取引の妨害を目的とする嫌がらせと整理してしまった。仮登記を申請した司法書士が誰かを知っていたのは、X氏の身近な人物が内容証明郵便の発信人であることが理由と考えた。そのうえで、詳細な本人確認はX氏からの不興を買うおそれがあるとして、弁護士からの助言に基づく本人確認は実施しないと決めてしまった。 (6) 社長からの指示と、それに基づく協議 社長は、上記についてマンション事業本部長から電話で報告を受け、「法務部長によく相談して対応するように」と指示をした。 社長は、そのうえで法務部長に電話をし「本部長から連絡がいく」旨を伝え、あわせて「顧問弁護士ともよく相談し、問題のないよう進めるように」と指示をした。 2017年5月22日、マンション事業本部と東京マンション事業部が法務部長と協議した。マンション事業本部長は、内容証明郵便等について「今回の契約を快く思っていない人物が取引を妨害する目的で行っているのであろう」との見解を示した。 なお、この時点までに弁護士からの上記(3)の助言や司法書士からの上記(4)の助言が法務部にも共有されていたのかについては、定かではない。 (7) 支払期日の前倒し そうした中、マンション事業本部と東京マンション事業部は、本件不動産の決済日を約2ヶ月前倒しして6月1日に変更することを決定した。取引の妨害行為に対抗することが目的であった。この決定は、法務部の同意を得たうえで、不動産部に説明がなされた。決済日を前倒しすることは、H氏と偽X側にも伝えられた。 マンション事業本部長は、海外出張中の社長に、ブローカーの相関図を記した書面を送付した。そのうえで、5月30日、帰国直後の社長の車に同乗し、「不動産部、法務部、弁護士と協議した結果、妨害行為を排除するため、残代金の決済を6月1日に前倒しする方針である」と説明した。あわせて、弁護士や法務部も了解していると伝えた。 社長は、法務部長に電話し、決済日の前倒しに問題はないか問い合わせた。これに対して法務部長は「問題ない」と回答した。 (8) 評価 ① マンション事業本部と東京マンション事業部の対応について 本件では、弁護士と司法書士から、極めて的確な助言がなされている。こうした専門家からの助言が関係各部署に適切に共有され、そのうえで関係各部署が集まって会議を開催していれば、本人確認をより徹底すべきとの意見が出ていた可能性も十分に考えられる。 そのうえで上記弁護士の助言に基づく本人確認を実施していれば、Xが偽物であることに気づいた可能性もゼロではない。現に、S社は、売買代金を騙し取られた後、本件不動産の近隣住民らに偽Xの写真を見せて「写真の人物はX氏本人ではない」との回答を得ている。 ただ、本件ではそうした会議は開催されていない。法務部長との協議が一度実施されただけである。その協議でも、X氏の本人性が大きく問題になった形跡はない。 そうである以上、当時の状況においてはマンション事業本部と東京マンション事業部の判断そのものはやむを得なかったとも解し得る。内容証明が単なる嫌がらせであるとの考えも、十分に成り立ち得たからである。本件不動産を購入しようとする競合も多数存在する状況で、妨害行為を避けるために支払期日を前倒しするという判断も、全く理解できないわけではない。 ② 社長の対応について では、この時点での社長の対応は問題になり得るだろうか。 この点、社長は関係各部署を集めての会議の開催までの指示はしていないものの、マンション事業本部長に対して、法務部長との協議を指示している。また、法務部長にも連絡し、マンション事業本部長との協議を指示している。両者は、社長の指示通り協議を行っている。また、決済日の前倒しについても、社長が自ら法務部長に連絡し、問題がない旨の回答を得ている。 よって、この時点の社長の対応に問題があったとまでは言い難い。 2 残代金49億819万3,309円の支払い (1) 直前の本人確認 2017年5月19日、本件不動産の内覧が実施された。内覧において偽Xが建物の間取りを間違えれば本人性に重大な疑義が生じるという意味で、重要な機会であった。しかし、偽Xは現地に現れず、代わりに弁護士が来ただけであった。同弁護士は、玄関ではなく勝手口のカギを開けて、建物内部を案内した。 2017年5月23日、偽Xら地面師グループ、H氏らと、マンション事業本部長、東京マンション事業部の営業次長らが面談した。その際、マンション事業本部長は、偽Xに対して、内容証明郵便について質問をした。偽Xは「内容証明郵便等は自分が作成したものではない」と説明し、その旨の確約書に署名押印をした。 2017年5月31日、偽Xら地面師グループ、H氏らと、マンション事業本部長、東京マンション事業部の営業次長ら、司法書士による最終の打合せが行われた。この打合せで、パスポート、国民健康保険被保険者証、印鑑登録証明書、戸籍謄本、住民票、除籍謄本、納税証明書3通、固定資産評価証明書などの確認がなされた。パスポートについては、紫外線ブラックライトを照射して隠しロゴや隠し写真などを確認する調査も実施されたが、問題は発見されなかった。 この際、偽Xは、本件不動産の権利証を持参しなかった。内縁の夫と喧嘩をしていて権利証を取りに行けない、との説明であった。そのため、偽X側の弁護士が作成する本人確認情報で登記申請を行うということになった。本人確認情報を作成する際、偽Xが自身の誕生日を忘れたと言ってパスポートを確認したり、干支を間違えたりするなど、本人性に疑義を持つべき事情が見られた。しかし、こうした情報が問題視されることはなかった。 (2) 所有権移転登記申請の受付と、残代金の支払い 2017年6月1日、S社の会議室に、偽Xら地面師グループ、H氏らと、マンション事業本部長、東京マンション事業部の営業次長らが、残代金の決済のために集まった。 その際、本件不動産で待機していた東京マンション事業部の担当者から「建物の中に電気がついており、また、建物の勝手口に釘止めが打たれている」との電話があった。さらにその後に「通報があったため、警察への任意同行を求められている」との電話があった。 しかし、マンション事業本部長、東京マンション事業部の営業次長らは「通報は本件取引への妨害行為の一環であろう」との結論になり、残代金の決済手続を続行した。 その後、法務局に行っていた司法書士から「所有権移転登記申請が受け付けられた」との報告がなされた。S社は、H氏に49億819万3,309円を8通の預金小切手で支払った。H氏はそのうち6通(44億5,790万1,309円分)を偽Xに渡した。 (3) 登記申請の却下 その後、法務局は、本件不動産の所有権移転登記申請を却下した。X氏の親族が不正登記防止申出をしていたために慎重な審査を実施し、国民健康保険被保険者証の写しが偽造であると把握したため、とのことであった。 S社は、偽Xら地面師グループに連絡を取ろうとしたが、もはや連絡はつかなかった。 (4) 評価 内容証明郵便など様々な情報が飛び交っている状況では、一度立ち止まって慎重に判断するのが本来であった。にもかかわらず、内覧の際の本人確認ができなかったことを問題視せずに進んでしまった。また、偽Xが誕生日や干支を正しく言えないなどの事情もあった。さらに、50億円近い金額を銀行振込ではなく預金小切手で支払うのも不自然であった。その他、多くの不審な事情があった。こうしたことを考えると、少なくとも事後的に見る限り、なぜ支払いまで突き進んでしまったのかという疑問も生じる。 ただ、S社の担当者は、偽Xら地面師グループに完全に騙されていた。最終の本人確認でも最低限行うべき事柄は実施されており、軽率に過ぎるという批判は当たらない。この状況に至っては、詐欺に気づかなかったのもやむを得ないと考える。 3 本事件の全体についての評価 (1) 本件の原因 ① 関係各部署の対応 本件不動産は、東京都心近くの優良物件であるにもかかわらず、長年にわたって売りに出されることがなかったため、不動産業者の間で有名な物件であった。筆者も五反田に行った際、駅からすぐなのに森のような場所が現れ、今時こんな物件が残っているのかと驚いたことを覚えている。そのため、本事件を報道で初めて知ったときは、「怪しいと思うのが当然なのに、なぜ騙されてしまったのだろう」という印象を持った。 ただ、その後、様々な報道に接し、また、「総括検証報告書」を読んでみると、S社を騙した地面師グループが極めて巧妙であったことが分かった。S社の担当者のみならず、司法書士や法務局など関係者がことごとく騙されている。少なくとも各場面で見る限り、S社の担当者が騙されてしまったことはやむを得なかった。本件不動産は取引成立に強い意欲を燃やして当然の優良物件であった。所有者X氏の機嫌を損ねるような本人確認は余程のことがない限りできないと考えたのも、一応理解できる。 そうだとすると、次に問題になるのが「これは余程のことである」との意見が法務部や不動産部から出なかったことである。しかし、法務部や不動産部は本件取引の全体像について正しい情報を伝えられていない。そうした中で、断片的情報のみを根拠に取引にストップをかけることは難しい。各場面で見る限り、法務部や不動産部の対応もやむを得ないものであったと言わざるを得ない。 ② 仕組みの不存在 結局、本件で一番問題になるのは、取引の検討が始まった時点で、法務部や不動産部も集まって会議を開催することをせず、その後も関係各部署で情報が共有されて意見を述べる機会を与えるという仕組みが作られていなかったことである。 「総括検証報告書」は、再発防止策として、決裁プロセスにおける情報の共有と、経営会議制度の創設について述べている。同報告書も、関係各部署による会議が開催されていなかったことや情報共有が不十分であったことが本件の原因の1つであったと考えていたことが分かる。 (2) 本件の責任 関係各部署による会議が開催されていなかったことや情報共有が不十分であったことが原因だとすると、これは各部署の責任ではなく各部署の上に立って会社全体を統括する社長の責任とも解し得る。本件において「総括検証報告書」に先立って作成された社外役員らによる調査報告書が社長の責任を指摘したのは、その趣旨と解する。 ただ、S社においては、本件に限らず以前から、法務部や不動産部など関係各部署が集まって会議を開催し、その後も情報共有を徹底して意見交換し合うということは行われてこなかったようである。大変厳しく評価すれば、S社においては、本件以前からコンプライアンス体制が十分ではなかったとも言い得る。 そうだとすると、これは本件当時の社長に限らず、歴代の社長や取締役会にわたる問題である。「総括検証報告書」が、本件の責任を当時の社長のみに問うのは妥当ではなく、過去からの経営者共通の問題であると指摘したのは、その趣旨と解する。 結局、本件は、歴代の取締役会が十分なコンプライアンス体制を構築してこなかった中で、当時の社長がそのことを前提に行動した結果、業務執行において失敗をしてしまった事例と解する。その意味で、社外役員らが作成した調査報告書にも、「総括検証報告書」にも、相応の説得力があると解する。 (3) コンプライアンス体制の充実の重要性 仮に歴代の取締役会が十分なコンプライアンス体制を整えていても、本件の被害は防げなかったかもしれない。本件での地面師らの手法は、それほどまでに精巧であった。 しかしそれでも、十分なコンプライアンス体制が整えられており、それに従って当時の社長が意思決定をしていれば、たとえ被害が生じようとも、社長としては注意義務を尽くしたと評価できた。そうであれば、本件の被害を理由とする社長に対する代表訴訟は避けられた可能性があった。また、代表訴訟は避けられずとも、同訴訟での社長の反論はより容易になったはずである。 コンプライアンス体制の充実は、ともすれば自由な経営を縛るもので、売上の増大の妨げになると誤解されることがある。しかし、実際には、会社のためを思って果敢な決断をした取締役が結果責任を問われないようにするため、必要不可欠な仕組みである。コンプライアンス体制の充実に欠ける点があったために代表訴訟にまで発展してしまった本件は、その事実を如実に示している。 コンプライアンス体制が充実していればこそ、取締役は果敢な決断をすることができ、会社を発展させることができる。取締役が失敗を恐れず果敢な決断をし、会社をより発展させていくためにも、さらなるコンプライアンス体制の充実が必要である。 (了)