ストーリーで学ぶ
IFRS入門
【第15話】
「退職後給付会計(IAS第19号)のキモは確定給付制度」
仰星監査法人
公認会計士 関根 智美
「あー、体がだるい・・・」
藤原は、首を揉みながらリフレッシュ・ルームに入ろうとした。今は4月。経理部にとって1年で最も忙しい時期である。東証1部に上場しているメーカーの経理部に勤める藤原も連日残業続きで、体がこわばっていた。
藤原は入口で足を止めた。
同じ経理部の後輩である桜井の背中が見えたからだ。社員の憩いのスペースであるリフレッシュ・ルームには、自動販売機といくつかのテーブルセット、そして壁際をささやかに彩る観葉植物が置いてあるだけだ。桜井は、昼食後の昼休みをそこで過ごしているようだった。心なしか、背中がくたびれている。
藤原は声をかけようか悩んだ。桜井とは以前は仲が良かったのだが、年末にちょっとしたいさかいをした後、微妙な関係が続いており、今も気軽に声をかけづらい状態が続いていた。
いさかいの発端は、会社のIFRS導入に向けて、藤原が桜井にIFRSを教えることになったことから始まる。初めはやる気満々だった桜井の勉強姿勢が次第に受身になっていく様子に藤原は不満を感じていた。藤原としては、勉強というのは自分から能動的に行うもので、そうしないと頭に入らないと思っている。そこで桜井に活を入れようとしたのだが、ちょっと言い方がまずかったらしい。当時多忙だったこともあり、つい突き放すような言い方になってしまい、それが桜井の機嫌を損ねてしまったのだ。その一方で、自分は間違っていないと思っているので、こちらから謝るのも釈然としない。
そんな状態のまま、必要最低限のやり取りでしか言葉を交わさない関係が続いているのだった。
「はぁー」
桜井は、リフレッシュ・ルームの椅子に腰かけて、こちらまで聞こえる盛大な溜息をついた。藤原が身の振り方を逡巡している間に、同じ経理部の伊崎がすっと桜井に近寄り声をかけた。伊崎は30代半ばのスマートな男性だ。
「桜井君、どうしたの?困ったことでもあった?」
伊崎は、午後一番の入れたてコーヒーを手に、桜井の向かいの席に座った。
「はぁ・・・仕事の方は比較的順調に進んでいるんですけど、IFRSの勉強で・・・」
藤原は意外な答えを聞いて、眉を上げた。仕事の悩みだと思っていたからだ。2人は藤原に気づかず、会話を進めていく。
「ふぅん。で、IFRSの何が問題なんだい?」
伊崎はコーヒーを飲みながら桜井に尋ねた。
「退職給付会計のことを勉強していたんですけど、全然理解できなくて・・・」
桜井は、バツが悪そうに言った。それを聞いた伊崎は腕を組んで言った。
「うーん。退職給付って数年前に日本基準が改訂されてから、IFRSとほとんど同じじゃなかったかな?」
「やっぱ、そうですよね。僕もそれを聞いたので勉強してみようと思ったんです。でも、何度本を読んでも内容が頭に入ってこないんです。」
大方、「日本基準と似ているから、勉強も楽に違いない。」と思ったんだろうな、と藤原は予想した。
伊崎は桜井の言葉に頷いた。
「なるほどね。細かい所では日本基準と違いはあるけど、考え方は一緒のはずなんだけどね。」
「あの、日本基準との違いってどんなものがあるんですか?」
日本基準との違いが分かれば、IFRSの内容も理解できるかもしれない、と期待を込めた表情で桜井が質問した。
「例えば、算定給付式しか認められないとか、割引率のこととか、利息の計算とか、再評価の会計処理とか・・・」
「え?え?え?」
立て続けに例を挙げる伊崎の言葉についていけず、桜井は逆に混乱している様子だ。それもそのはず。そもそも桜井の退職給付会計の理解が伊崎のそれに追いついていないのだ。藤原は秘かに溜息をついて、2人に近づいた。
「伊崎さん、そいつ、そこまで理解できてないですよ。」
桜井が後ろを振り向き、間抜けな顔をして藤原を見上げた。
「ふ、藤原先輩!」
桜井は、思わず声を上げた。
「え?そうなの?」
伊崎は、そんな桜井の驚きをスルーして藤原に訊いた。
「こいつには、もっと基本的なことから教えないと。たぶん、日本基準の退職給付会計すら、よく分かってないんじゃないですか。」
「うっ・・・」
桜井は図星を付かれた様子で言葉を詰まらせた。
「そうなんだ。やっぱり藤原君は桜井君のこと、よく分かっているね。」
伊崎は頬杖を突きながら、藤原を見上げた。そして―
「あ、いいこと思いついた。」と、伊崎はポンと手を打つ。
藤原は直感的に嫌な予感がしたため、急いで自動販売機の方へ足を向けるが、伊崎はすかさず藤原の腕を取り席に引き寄せる。
「桜井君、ちょうどいいから、藤原君に退職給付会計を教えてもらえばいいんじゃないかな?」
「「えぇっ!」」
桜井と藤原は同時に声を上げた。
「いや・・・あの・・・自分は仕事が手一杯でー。」
藤原は、首を振りながら即座に断る。今は1年で一番忙しい時期で、連日深夜まで残業してもやることは山積みなのだ。そんな余裕、あるわけがない。
しかし、伊崎の笑顔は崩れない。
「後輩の指導も立派な仕事だよ。」とにっこり。
「伊崎さん、今何月だと思っているんですか。」
藤原は半ば呆れて言った。
「もちろん、4月だよ。」
「じゃ、それどころじゃないの、分かりますよね!?」
藤原は、必死になって伊崎に考えを諦めるように説得を試みた。しかし、何を言っても伊崎は首を横に振る。
「桜井君にとって、今後必要な知識だよ。今忙しいからとか、目先のことにとらわれていちゃダメだよ。」
「それに」と、伊崎は反論しかけている藤原を手で制した。
「『鉄は熱いうちに打て』って、君が桜井君によく言っていたじゃない。今だよ、桜井君が熱くなっているのは。」
それを聞いて、藤原は桜井を見下ろす。桜井は困った顔で伊崎と藤原を交互に見ていた。熱くなっているようには到底見えない。
しかし、藤原が再度断ろうと口を開くよりも早く伊崎が言った。
「大丈夫だよ、藤原君。今日の君の残業申請は僕が代わりに部長に出しておいてあげるから。」
そして、伊崎はコーヒーを飲み干し、優雅に席を立った。
「じゃ、桜井君の指導、よろしく頼むね。」と言い残して、その場から立ち去る。
リフレッシュ・ルームに取り残された2人は顔を見合わせた。
「・・・やられたな。」
藤原の言葉に、思わず「すみません。」と、桜井が謝った。