公開日: 2017/01/12 (掲載号:No.201)
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ストーリーで学ぶIFRS入門 【第12話】「金融商品会計はIFRSも難しい?」

筆者: 関根 智美

金融商品の当初認識と当初測定

  • 金融商品の定義
  • 金融商品の当初認識と当初測定
  • 金融資産の分類と測定
  • 金融負債の分類と測定
  • 減損

「続いて金融商品はいつ認識されるのか、そしてその金額はいくらか、という話に移ろう。」

「はい!」と、話題が変わってほっとした桜井は、勢いよく返事をした。

契約の当事者になった時点で当初認識

「基本的には、企業は金融商品の契約条項の当事者になった時に、金融資産又は金融負債を財政状態計算書に認識することになる。」

「へぇ、契約の当事者になった時点ですね。」

通常の方法による金融資産の売買の場合は、取引日又は決済日で当初認識

「そうだよ。それから、通常の方法による金融資産の売買の場合は、取引日又は決済日のいずれの日に処理するのかを選択して認識するんだ。」

「なるほど。こちらは、取引日か決済日かを選択できるんですね。」

金融商品の当初測定は公正価値

メモを取り終えた桜井が顔を上げた。
「認識のタイミングが分かったら、次は計上額の話ですね。」

「そうだね。基本的には、金融資産及び金融負債は公正価値(fair value)で当初認識するんだ。」

「はい。公正価値で測定するんですね。」

純損益を通じて公正価値で測定するものではない金融資産や金融負債は取引コストも考慮

「ただし、純損益を通じて公正価値で測定するものではない金融資産や金融負債の場合は、金融資産の取得又は金融負債の発行に直接起因する取引コストを加減算する必要があるんだ。」

「あの、『純損益を通じて公正価値で測定する』って、何ですか・・・?」
桜井は首を傾げた。

「これは金融商品の当初測定後の測定基礎の一つなんだけど、具体的には後で説明するから、今は取引コストを考慮するものがある、という理解で大丈夫だよ。」

「はい、分かりました。」

重大な金融要素を含んでいない営業債権は取引価格で当初測定

「それから、重大な金融要素を含んでいない営業債権は、取引価格(transaction price)で測定する必要があるんだ。」

「『重大な金融要素を含んでいない営業債権』ですか・・・?」
またしても知らない用語を聞いた桜井は、眉間に皺を寄せて聞き返した。

「あ、そっか。藤原君はまだ収益認識のところまで教えてないんだね。」
桜井は不安そうな表情のままコクリと頷いた。

「じゃ、次回は収益認識をテーマにしようかな。簡単に説明すると、重大な利息が含まれていない営業債権ってことだよ。話が脱線しちゃうから、詳しい説明は今度にしよう。」

「はい・・・。つまり、重大な利息が含まれていない営業債権なら、公正価値ではなく取引価格で当初測定すればいいんですね。」

「そういうこと。ここまでが金融商品の当初認識と当初測定についてだよ。そんなに変な規定はなかったでしょ?」

「ええ。知らない言葉がありましたけど、このくらいなら僕でもついていけそうです。」
それを聞いた伊崎は、にっこりと頷いて言った。

「そうそう、これも藤原君がまとめてくれた表があるから、使っていいよ。」

【金融商品の当初認識と当初測定】

《当初認識》 契約の当事者になった時点

  • 通常の方法による金融資産の売買
    ⇒ 取引日 又は 決済日

《当初測定》 公正価値で測定

  • 純損益を通じて公正価値測定するもの以外の金融資産や金融負債では、取引コストも加減
  • 重大な金融要素を含んでいない営業債権
    ⇒ 取引価格で測定

 

金融資産の分類と測定

  • 金融商品の定義
  • 金融商品の当初認識と当初測定
  • 金融資産の分類と測定
  • 金融負債の分類と測定
  • 減損

「さて、次が一番のヤマ場だね。」

「えーと、『金融資産の分類と測定』についてですね。」
桜井は学習項目の表を確認した。

「そうだね。ここで『測定』とあるのは、いわゆる『当初認識後の測定』というものだね。」
そこで伊崎が腕を組んだまま、クルリと桜井の方に椅子を回した。

「桜井君は、「金融資産の分類」と聞いて、何を思い浮かべる?」

「そうですね・・・有価証券だったら、売買目的有価証券とか、満期保有目的債権、その他有価証券という分類でしょうか。」

「日本基準だとそうだね。」
伊崎の返事を聞いて、桜井は尋ねた。

「ということは、IFRSでは分類の方法が日本基準と違うんですか?」

金融資産を2つのモデルに基づいて分類

「そうなんだ。IFRS第9号では、日本基準のように保有目的別に分類するのではなく、

  • 金融資産の管理に関する事業モデル(事業モデル要件)
  • 金融資産の契約上のキャッシュ・フロー特性(キャッシュ・フロー要件)

という、2つのモデルに基づいて分類するんだよ。」

「へぇ。日本基準とは違う分類方法なんですね。」

「そういうことだね。そして、その分類に応じて測定方法を決めていくんだ。まずは、フローチャートを見てみようか。」
ファイルをめくろうとした伊崎は、ふと手を止めて桜井の方を見た。

「そうそう、株式の場合は別のフローチャートがあるんだ。だから、これから見ていくフローチャートは、主に債券・債権が対象になるよ。」

「あ、はい。分かりました。では、債券や債権をイメージしながら、フローチャートのプロセスを確認していきます。」

「そうだね。」と、伊崎は笑顔で返した。

【金融資産分類・測定のフローチャート】

伊崎の示したフローチャートを見た桜井は一瞬固まった。

「あ、あのー・・・『CF』 はキャッシュ・フローのことですよね?」

「ああ、そうだね。」

「それと…下にある『FVOCI』と『FVTPL』って・・・何ですか?おしゃれなファッション雑誌みたいな名前ですけど。」
もともと英語は苦手な桜井である。よく使う単語や、短い単語ならなんとか対応できるが、意味不明のアルファベットの羅列に頭が拒否反応を示していた。

「あー、たしかにいきなり見ると、何のことやらって感じになるよね。」
伊崎も英語が苦手な桜井がフローチャートを見て戸惑った理由が分かったようだ。

「はい・・・」

「じゃ、まず先に測定から説明した方が良さそうだね。」

金融資産の3つの測定方法

「一番下のカラフルなボックスは測定基礎を表しているんだ。金融資産では、主に3つの方法で測定されるんだよ。それぞれ簡単に確認にしていこう。」

「はい。」

償却原価は実効金利法によって算定する

「左端から順に説明していくと、まず、実効金利法による償却原価(amortised cost)で測定する方法が1つ目。」

「実効金利法による償却原価、ですね。あれ、確か日本基準だと実効金利の他に、定額法による償却原価を算定する方法も認められていますよね?」
桜井は少し自信なさ気に尋ねた。

「そうだね。でもIFRSでは、実効金利法のみが認められているんだよ。ここも日本基準と違う点だね。」

「へぇ、そうなんですか。」
桜井は納得して、次のボックスに目を移した。

FVOCIは公正価値の変動部分の処理に注意

「それから、2つ目のボックスにある『FVOCI』だけど、これは英語の頭文字を取った表現なんだよ。Fair Value Through Other Comprehensive Income。日本語で言うと、『その他包括利益を通じて公正価値』で測定する方法ってことだね。」

「なるほど。確かに日本語で言うよりアルファベットで表した方が言いやすいですね。」

「でしょ?この測定方法は、言葉の通り、金融資産を公正価値で測定するんだよ。」

「ということは、公正価値の変動により生じた差額は、『その他包括利益』として認識されることになるんですね。」

ところが、伊崎が首を振って言った。
「それがちょっと面倒でね。仮にその金融資産が償却原価として測定されていた場合に純損益として認識する部分については純損益として認識して、それ以外の変動部分についてのみ『その他包括利益』に含めて認識するんだ。」

「えーと、どういうことですか?」
伊崎の説明がすんなり頭に入らなかった桜井は、聞き返した。

「ちょっと説明を要約しすぎちゃったかな。FVOCIで測定する金融資産であっても、実効金利法で算出した金利部分は、『その他包括利益』ではなく『純損益』に認識するんだよ。」

「なるほど。その金利部分が、『償却原価として測定されていた場合に純損益として認識する部分』という表現になっているんですね。」

「そうだね。そして、公正価値の変動額のうち、その金利部分を除いた変動額が『その他包括利益』として認識されるんだ。」

「へぇ。公正価値の変動額を金利部分とそれ以外に区別する必要があるんですね。」

「そういうこと。それから、その金融資産の認識を中止した時に、今までその他包括利益に認識した累計額を、資本から純損益に組替調整することになるんだよ。いわゆる“リサイクリング”というやつだね。」

「はい。つまり、こういうことですね。」
と桜井はノートにイメージ図を描いた。

【FVOCI評価差額の処理】

FVTPLは「純損益を通じて公正価値」で測定すること

「最後のFVTPLも英語の頭文字を取ったものだよ。」

「えーと、頭文字だから、Fair Value Through・・・」
慣れない思考に頭がフリーズしてしまった桜井の言葉を引き受けて、伊崎が説明した。

「Fair Value Through Profit or Lossだね。意味は、『純損益を通じて公正価値』で測定する方法のことだよ。」

「この方法にも何か注意点はあるんですか?」

「いや、ここは安心して大丈夫。」と伊崎は笑って、説明を続けた。

「FVTPLでは、金融商品を公正価値で測定し、それにより生じる利得又は損失は、すべて純損益に認識することになるんだ。」

「なるほど。これでFVOCIもFVTPLの意味も理解できました。」

「それはよかった。アルファベットの単語の意味が分かってスッキリしたところで、さっそくフローチャートの流れの確認に入ろうか。」
桜井は再びフローチャートに視線を戻した。

分類1:事業モデル要件

「まずは、『事業モデル要件』という所ですね。その下に3つのボックスがありますけど、これはどういう意味なんですか?」

「事業モデル要件とは、金融資産の管理に関する企業の事業モデルに基づいて金融資産を分類することなんだけど。」

「はい・・・」
桜井のぼんやりした表情に伊崎は苦笑した。

「それだけじゃ、よく分からないよね。これはね、企業がキャッシュ・フローを生み出すために金融資産をどのように管理しているのかを指しているんだ。すなわち、キャッシュ・フローが生じるのが、

  • 契約上のキャッシュ・フローの回収からなのか
  • 金融資産の売却からなのか
  • その両方からなのか

で分けるんだ。」

「あ、なるほど。それが下に続く3つのボックスになるんですね。」

「その通り。」

「CF回収」又は「CF回収及び売却」に該当するものはキャッシュ・フロー要件へ

「では、金融資産のキャッシュ・フローが契約上のキャッシュ・フローの回収か、キャッシュ・フロー回収と売却の双方に該当する場合は、その下に続く『キャッシュ・フロー要件』を検討するんですね。」

「売却」に該当するものはFVTPLで測定

「そうなるね。そして、ここで『売却』に該当する金融資産は、FVTPLで測定することになるんだ。」

「FVTPLってことは、売却によりキャッシュ・フローが生じる金融資産は純損益を通じて公正価値で測定することになるんですね。分かりました。」
桜井は、フローチャートの流れを指で辿りながら確認した。

分類2:キャッシュ・フロー要件

「事業モデルに基づいてその金融資産が契約上のキャッシュ・フローの回収、又は回収及び売却の双方によりキャッシュ・フローが生じるものとして管理されている場合、次の『キャッシュ・フロー要件』の検討に入ることになるのは、大丈夫だね?」

「はい。」

「キャッシュ・フロー要件とは、その金融資産の契約上のキャッシュ・フローが特定の日における元本及び元本残高に対する利息の支払いのみであるかどうかを判定することを言うんだよ。」

そこで桜井が質問した。
「キャッシュ・フロー要件を満たすものと満たさないものって、どんな金融資産が該当するんでしょうか?」

「そうだね。例えば、固定金利の貸付金はキャッシュ・フロー要件を満たすよね。」

「確かに。契約上のキャッシュ・フローは、通常、元本及び元本残高に対する利息の支払いのみですね。」

「それから、キャッシュ・フロー要件を満たさない例としては、転換社債が分かりやすいかな。」

「転換社債ですか?」

「うん。転換社債のリターンは発行者の資本の価値に連動していると考えられるから、キャッシュ・フロー要件は満たさないんだ。」

「なるほど。確かに言われてみればそうですね。」と、桜井は納得して頷いた。

キャッシュ・フロー要件を満たさない金融資産はFVTPLで測定

桜井は、フローチャートに再び視線を戻した。

「キャッシュ・フロー要件を満たせば、さらに下の検討ボックスに移り、この要件を満たさない場合は、えーと、FVTPL、つまり純損益を通じて公正価値により測定することになるんですね。」

伊崎は頷いた後、少し補足した。

キャッシュ・フロー要件はSPPI要件とも言う

「ちなみに、このキャッシュ・フロー要件は『元本及び利息の支払いのみ』という意味の英語、“Solely Payment of Principal and Interest”の頭文字を取ってSPPI要件と言うこともあるんだ。解説書によってはこちらの表現で書いてあるものもあるよ。」

「僕は日本語の方がありがたいですけど・・・」

桜井は伊崎に聞こえないように呟いたつもりだったが、それを聞いた伊崎はくすりと笑った。

「元本残高に対する利息」には管理コストや利益マージンも含まれる

「それから、『元本残高に対する利息』については、ちょっと注意が必要かな。」

「注意、ですか?」

「うん。これには、貨幣の時間的価値や信用リスクの他にも、融資リスクや管理コスト、利益マージンも含まれることになるんだよ。」

「へぇ。単純に貨幣の時間的価値や信用リスクだけではないんですね!」

公正価値オプション

フローチャートを確認した桜井は、首を傾げた。
「あれ?そう言えば、金融資産は2つのモデルに基づいて分類するんですよね?フローチャートでは、その下にまだ『公正価値オプション』という分岐がありますけど・・・」

「ああ。公正価値オプション(fair value option)とは、金融資産をFVTPLで測定することができるというオプションのことだよ。」

「へぇ、そんなオプションがあるんですね。」

公正価値オプションを選択できる条件

「公正価値オプションは、どんな金融資産でも選択することができるんですか?」
桜井の質問に、伊崎は首を横に振った。

「いや、選択するには条件があるんだよ。この公正価値オプションは会計上のミスマッチを解消又は大幅に低減できるときに選択できるんだ。金融資産ごとに選べるんだけど、一度選択したら取り消しはできない点に注意が必要だね。」

「会計上のミスマッチ」とは?

「あの、『会計上のミスマッチ』って何ですか?」

「会計上のミスマッチとは、資産や負債の測定や、それらに係る利得や損失を異なる測定基礎を使った場合に生じる不整合のことを言うんだ。」

「はぁ。」と、桜井は曖昧な相槌を打った。

「例えば、資産が償却原価で測定されていて、それに関連する負債が公正価値で測定されていた場合、それぞれの測定額や資産や負債から生じる利得や損失は対応していないよね。」

「あ、そうか。そこで公正価値オプションを選択して、資産とそれに関連する負債の測定基礎を一致させるんですね。」
伊崎は桜井に向かって頷いた。

「そうだね。測定基礎を一致させることで、より目的適合性の高い情報が提供できると考えられるんだ。」

「なるほど。こんな感じの理解で大丈夫ですか?」
桜井は、伊崎の説明を基に図を描き始めた。

「うん。大丈夫だよ。今はこのくらいの理解で十分じゃないかな。」

「はい、分かりました。」

「ということで、公正価値オプションを選択しない場合は、それぞれ一番下のボックスの『償却原価』又は『FVOCI』で測定することになるんだ。」

「はい。ばっちりです!」

株式の分類と測定

「次は株式の分類のフローチャートだね。」

「そう言えば、株式は別のフローチャートがあるんでしたね。すっかり忘れるところでした。」
伊崎は笑いながら、もう一つのフローチャートを桜井に見せた。

【株式の分類・測定のフローチャート】

「株式の場合は、債券・債権のフローチャートよりシンプルなんですね。えーと・・・」
桜井はフローチャートを眺めながら言葉を続けた。

「まずは、売買目的かどうかで分かれるんですね。」

売買目的の株式はFVTPLで測定

「そう。売買目的で保有している株式はFVTPL、つまり純損益を通じて公正価値で測定されることになるんだ。」

「なるほど。それなら日本基準と似ているので、理解できます。」

OCIオプションの選択

「そして、売買目的で保有していない株式は、『OCIオプション』を選択できる。」

「OCIというと、えーと・・・other comprehensive income・・・だから、『その他包括利益』のことですね。その他包括利益を通じて公正価値で測定することを選べるんですね。」

「そう、よく英語で言えたね。この選択は株式ごとに選択できるんだけど、このオプションも一度選択すると取り消しはできないんだ。」

「はい。分かりました。」と返事をした桜井は、フローチャートの言葉に目を止めた。

株式のFVOCIはリサイクリングしない

「あのー、FVOCIの言葉の下に、『(リサイクリング無)』とありますけど、これはどういう意味なんですか?」

「そこは大事な点だよ。前のフローチャートで説明したFVOCIは、金融資産の認識の中止をした時点でリサイクリングしたよね?」

「はい。認識を中止した時に、それまでその他包括利益で認識した累計額を純損益に振り替えるんですよね。」

「うん。でも、株式のFVOCIは事後的に純損益に振り替えてはならないんだ。利得又は損失の累計額を資本の中で振り替えることはできるけどね。」

「へぇ。なんだかややこしいですね。」

「そうだよね。」と伊崎も笑って答えた。

「でも、このややこしい金融資産の分類と測定はこれでお終いだよ。」
その言葉に桜井はようやくほっと一息をついて、すっかり冷めたコーヒーを一気に飲んだ。

ストーリーで学ぶ
IFRS入門

【第12話】

「金融商品会計はIFRSも難しい?」

仰星監査法人
公認会計士 関根 智美

 

連載の目次はこちら

● ○ プロローグ ○ ●

「ピリピリ!って音、しない?」
隣の席の橋本にいきなり話しかけられた伊崎は当惑した。橋本が何のことを言っているのか、さっぱり分からなかったからだ。伊崎のその表情を気にすることなく、橋本がさらに言う。

「ほら、向かいのあの2人の空気よ。年末からずっとあの調子じゃない。」

伊崎もその言葉で納得した。2人の対面の席には、経理部の若手コンビである藤原と桜井がいつものように和気あいあいと雑談することもなく、それぞれのPCに黙々と集中している。どうやら年末に2人の間でひと悶着あったようだった。

「伊崎さんは何があったか知っている・・・わけないわよね。」と橋本は、伊崎の顔をちらりと見てからため息をついた。

「第3四半期は年始休暇のせいで作業日程がいつもよりタイトだから、黙って仕事してくれる分にはいいんじゃないかな?」
伊崎は両手を後頭部で組み、背もたれに体を預けて軽く伸びをした。

ここは、東証一部に上場しているメーカーの経理部である。3月決算会社であるため、経理部は年明け早々から第3四半期決算のプチ繁忙期に入っていた。課長の倉田を始め、中堅クラスの伊崎、橋本、入社5年以下の若手である藤原、桜井、山口がそれぞれの分担を黙々とこなしている。この会社では今年の夏にIFRSを導入することを決定したのだが、この期間ばかりはIFRS導入プロジェクトも活動休止中だ。

「あら、職場の雰囲気って大事なのよ?私なんて繊細だから、この緊張感のある空気が気になっちゃって・・・」
「部署異動の希望を出そうかしら~」と、派遣社員を除く経理部の中で紅一点の橋本はしれっと言う。

「うーん、これ以上仕事が増えるのは困るなぁ。橋本さんがいないと、税金まで僕が担当することになりそうだ。」
橋本は、頬杖をついて伊崎の方に体を向けた。

「でしょう?だから、どうにかしてあの2人を和解させましょうよ。どうせ喧嘩の原因は藤原くんが作ったんでしょうけど。」

「だったら、僕は協力できないんじゃないかな?なぜか藤原君には嫌われているんだよね。」
伊崎は腕を組んで、橋本に言った。橋本は首を傾げながら頬杖をついている方の人指し指で、トントンと頬を叩く。

「うーん、伊崎さんの要領の良さが羨ましいからかしら?ほら、藤原君って不器用なタイプだから。」
そう言うと橋本は暫く沈黙し、再び口を開いた。

「ま、いいわ。私が藤原君に話を聞いてみるから、伊崎さんは桜井君をお願いね。」
橋本は伊崎ににっこりとほほ笑みかける。伊崎はやれやれと首を振りながらも、引き受けることにした。

翌日、早朝の冷気で頬を赤らめた桜井がオフィスに入ると、既に経理部に先客がいた。

「あれ?伊崎さん、おはようございます。今日は珍しいですね。」
桜井は伊崎の向かいの席に鞄を置き、コートを脱ぎはじめた。

「おはよう。偶然目が早く覚めちゃったから、仕事を片付けに来たんだ。来週中には数字を固めておかなきゃいけないからね。」
伊崎はほほ笑んで答えた。もちろんこれは方便で、本当は桜井と一対一で話をしたかったからだ。藤原と微妙な雰囲気にある桜井は、隣席の藤原を避けるためか、残業をほどほどにこなした後すぐ帰宅し、早朝に作業をしていた。

「桜井君は、進捗状況はどう?順調?」

「まぁまぁって感じです。今日から有価証券の予定です。」
桜井は作業管理表を確認して答えた。

「そっか。じゃ、すぐに終わりそうだね。今回特に問題のある有価証券もないし、いつも通りだから。ところで、藤原君に何を言われたんだい?」

「ええ・・・えっ!?」
仕事の話からいきなり切り替えられた話題に桜井は動揺した。

「ほら、何か君たち微妙な雰囲気になっているから、僕で良ければ相談に乗るよ?」
伊崎は先ほどからゆったりした笑顔を浮かべている。桜井は一瞬逡巡したが、もやもやした胸の内を誰かに、できれば優しそうな人に聞いてもらいたいという思いもあり、先月の藤原とのやり取りを話すことにした。

「・・・へぇ、なるほどね。」
一部始終を聞き終えた伊崎は、買ってきたばかりの缶コーヒーのうち1本を桜井に手渡し、自分の分のプルタブを開けた。桜井も伊崎の隣の席に腰かけ、お礼と共に受け取ったコーヒーを一口すする。

「はい・・・。いくら先輩だからって、あんなに偉そうに言う筋合いはないと思います。それに、IFRSだって僕から頼んで教えてもらっているわけじゃないし・・・」
桜井は溜めこんでいた鬱憤を吐き出して、少しすっきりしたようだ。

「そうかー。そういうことなら、今のままちょっと距離を置いていたらいいんじゃないかな。」
桜井は伊崎の意外な返答を聞いて、呆気に取られた顔をした。

「え?伊崎さんは僕たちを仲直りさせようとしているんじゃないんですか?」

伊崎はコーヒーを飲みながら言った。
「だって、少なくとも君は自分が間違っているって思ってないわけでしょ?」

「ええ、まぁ、そうですけど・・・」

「なら、折れる必要なんてないと思うよ。後輩だからとか、関係なく。」

「それでもいいんですか?」

「だって、必要最低限の業務連絡とかはしているわけでしょ?仕事に支障がないのなら、それでいいんじゃないかな。皆と仲良くなんて、無理だよ。」

桜井は、自分の意見が聞き入れられたことで肩すかしを食らった気分になった。心のどこかで自分が非難されるのでは、と予想していたからなのだが、すんなり受け入れられると、それはそれで漠然と不安な気持ちになる。
「でも・・・」

そこで伊崎は桜井の方に向き直った。
「そもそも、IFRSを教えてもらったことがきっかけなんだよね?それなら、僕が藤原君の代わりにIFRSを教えようか?」

さらに伊崎は、「もしかしたら、藤原君より上手いかもしれないよ?」とおどけた口調で付け加えた。

桜井は暫く黙って考え込んだ。桜井だって、せっかくIFRSの勉強を始めたのだから、このまま続けたいとは思っているのだ。しかし、自分から積極的に本を開くことはついつい後回しになっているし、今の気まずい状況で藤原に頭を下げて教えてもらうのも抵抗がある。伊崎の申し出は、桜井にとって願ったり叶ったりだった。

「では、IFRSのこと、伊崎さんにお願いしてもいいですか?」
桜井はおずおずと言った。

「もちろんだよ。」
伊崎は再び桜井に笑顔を向けた。

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連載目次

筆者紹介

関根 智美

(せきね・ともみ)

公認会計士

神戸大学経営学部卒業
2005年公認会計士2次試験合格
2006年より大手監査法人勤務後、語学留学及び専業主婦を経て、
2015年仰星監査法人に入所。法定監査を中心に様々な業種の会計監査業務に従事する。
2017年10月退所。

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