〈小説〉
『資産課税第三部門にて。』
【第5話】
「マイナンバーの影響」
~資産情報の調査~
公認会計士・税理士 八ッ尾 順一
谷垣調査官が右手に経済雑誌を持ちながら、田中統括官の机の前に来た。
「あの・・・」
「どうした?」
部下の調査報告書を読んでいた田中統括官は、顔を上げて谷垣調査官を見た。
「マイナンバーのことで少しお聞きしたいのですが・・・」
谷垣調査官は、持っていた経済雑誌を見せながら、田中統括官の顔色を窺っている。その雑誌では相続税対策の特集が組まれており、その中にマイナンバーの記事が載っている。
「個人番号及び法人番号か・・・今年、2016年から制度がスタートするんだな。」 田中統括官は、谷垣調査官の質問に興味を持った様子で言った。
「マイナンバーが導入されたら、資産税の税務調査もかなり変わってくるだろうな。」 田中統括官は腕を組んで思案顔になる。
「預金口座と個人番号がひも付くと、すべての預金口座を簡単に名寄せできるから、お金の流れも資産の状況もかなり把握することができる。今までは、被相続人や相続人の居住地や勤務地近くにある金融機関に照会して、関係口座の有無を調べていたのだが・・・その必要もなくなる。」
田中統括官は少し興奮した様子で言葉を続ける。
「それに、納税者の金融機関や証券会社等との取引事実を把握するための・・・資産の所有等に関する資料又は金融取引資料せんなどは、今までは氏名や住所の不正確な表示で一致させられない情報がかなり宙に浮いたままになっていた。それも個人番号を利用することによって、かなり正確に納税者とマッチングすることになる。これは税務調査にとって大きなプラスだ。」
田中統括官の言葉に谷垣調査官はうなずいた。
「しかも、マイナンバー制度が導入されると、借名の口座には個人番号を付けることができなくなりますから、借名の口座などもできなくなります。それで、個人番号の付いていない口座を集中的に調べて、不自然なキャッシュの流れを解明するとか・・・」 谷垣調査官は言葉を付け加えた。
「ところで、今、銀行では現金で引き出しをする人が多いらしいですね。」 谷垣調査官は苦笑いしながら言う。
「それはなぜだい?」 田中統括官が尋ねる。
「統括官が今おっしゃったように、マイナンバーが導入されたら個人の預金が把握されるから、その前に銀行から預金を引き出そうと・・・」
谷垣調査官の説明に、田中統括官は再び尋ねた。
「それをタンス預金にするというのか?」
「いえ、銀行の貸金庫に入れておくらしいです。ですから、今、銀行では貸金庫の申込みが多いと聞いています。」
谷垣調査官の説明に、田中統括官は大きくうなずいて言った。
「そうか・・・マイナンバーの影響だろうな・・・」
「しかし、谷垣君も知っているだろう。税務調査では銀行の貸金庫に備え付けられている防犯監視カメラを見るから、誰が、いつ、貸金庫に行ったかなんて、簡単に調べることができる。現金を持って貸金庫に行く納税者の姿もバッチリ確認できるんだ。」 田中統括官は笑いながら言う。
「そうですね。貸金庫にどれだけ現金を入れていても、税務調査からは逃れられません。」 谷垣調査官も納得する。
「それに、銀行の預金口座だけでなく投資信託口座や保険などもマイナンバーでひも付くことになるから、相続税の税務調査はずいぶん効率的になる。・・・つまり、個人番号からその人の大部分の財産を機械的にはじき出すことが可能になる、というわけだ。」
「そうすると、ますます日本の富裕層の人たちはそれを嫌って、海外に逃避するのでしょうかね・・・」 谷垣調査官は不安そうな表情を浮かべた。
田中統括官は腕を組みながら言った。
「そうだなあ・・・しかし、既にかなりの富裕層の人が住所を海外に移していると聞いているが・・・」
「例えば、香港とかシンガポールですか?」
「ああ、あそこは相続税がない国だから・・・」 田中統括官は半ばあきらめの表情になる。
「この雑誌にも載っていますが、相続税のない国って、けっこうあるんですね。例えば、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、スウェーデンそして・・・マレーシアも、相続税がありません。」
谷垣調査官は雑誌の記事をもう一度田中統括官に見せた。
「そういえば台湾では、2009年の税制改正で、相続(遺産)税と贈与税の減税措置(一律税率:10%)が実施されたらしい。その減税した理由は、台湾の多くの富裕層が税逃れのため海外に逃避したからだといわれている・・・しかし、一旦、海外に出て行った人は、減税をしても、簡単には台湾に戻ってこないだろう・・・」
田中統括官の言葉に谷垣調査官はうなずく。
「そりゃそうですよね。」
さらに谷垣調査官は不安そうな顔で、田中統括官に尋ねた。
「しかし・・・日本は本当に大丈夫でしょうか? 相続税の課税を強化し、おまけに国外転出時課税制度を創って、国外転出する居住者に対して有価証券等のキャピタルゲインの課税をするなど、世界の潮流と逆行しているように思えるのですが・・・」
「そうだなあ・・・」
谷垣調査官の話を聞いていた田中統括官も曇り顔になった。
(つづく)
この物語はフィクションであり、登場する人物や団体等は、実在のものとは一切関係ありません。
「〈小説〉『資産課税第三部門にて。』」は、毎月第1週に掲載されます。