〈小説〉
『資産課税第三部門にて。』
【第7話】
「未分割遺産とその法定果実」
公認会計士・税理士 八ッ尾 順一
「田中統括官!」
田中統括官が顔を上げると、谷垣調査官が相続税の申告書を持ち、机の前に立っている。
「???」
田中統括官は、重そうな瞼で谷垣調査官を見た。
午後3時過ぎの睡魔が忍び寄る時刻である。
「何だい?」 田中統括官は谷垣調査官の真剣な眼差しに一瞬戸惑う。
「実は個人課税部門から質問があったのですが・・・」 谷垣調査官はそう言うと、右手に持った相続税の申告書を田中統括官に見せた。
「この相続税の申告書は未分割で提出されているのですが・・・」
相続税の申告書を見ながら田中統括官はうなずく。
「そんなことは申告書を見れば分かる・・・それで一体、どうしたっていうんだ。」 谷垣調査官の質問の意味が理解できず、田中統括官の声が苛立っている。
「この未分割の相続財産の中に、賃貸マンションがあるのです。」
谷垣調査官が説明を始める。
「それで、相続人は3人いるのですが、この賃貸マンションの家賃収入について、相続人の1人がすべてを申告しているのです。」 谷垣調査官は困ったような表情を浮かべている。
「家賃収入に漏れがなければ、相続人の誰が申告してもかまわないのでは・・・」 田中統括官は谷垣調査官の顔を見た。
「しかし、統括官も知っている・・・と思いますが・・・」
谷垣調査官は少し嫌みっぽく言う。
「国税庁のタックスアンサーでは、共同相続人がその法定相続分に応じて申告することになる・・・と回答しています。」
谷垣調査官は、「No.1376 不動産所得の収入計上時期」とプリントされた用紙を田中統括官に見せた。
〈国税庁タックスアンサー〉
No.1376 不動産所得の収入計上時期
「未分割遺産から生ずる不動産所得」
Q
賃貸の用に供している不動産を所有していた父が亡くなりましたが、遺言もなく、現在共同相続人である3人の子で遺産分割協議中です。この不動産から生ずる収益は長男の名義の預金口座に入金していますが、不動産所得はその全額を長男が申告すべきでしょうか。
A
相続財産について遺産分割が確定していない場合、その相続財産は各共同相続人の共有に属するものとされ、その相続財産から生ずる所得は、各共同相続人にその相続分に応じて帰属するものとなります。
したがって、遺産分割協議が整わないため、共同相続人のうちの特定の人がその収益を管理しているような場合であっても、遺産分割が確定するまでは、共同相続人がその法定相続分に応じて申告することとなります。
なお、遺産分割協議が整い、分割が確定した場合であっても、その効果は未分割期間中の所得の帰属に影響を及ぼすものではありませんので、分割の確定を理由とする更正の請求又は修正申告を行うことはできません。
「しかし・・・別に、相続人の1人が申告しても、税務上問題はないのでは・・・」
田中統括官は文書を見ながら抵抗を続けた後、思案顔になって言った。
「昔はこんな取扱いをしていなかったと思うけどなぁ・・・」
「そうなんです。平成17年9月8日の最高裁の判決によって、このような処理になったと思われます。」
谷垣調査官は自分の机に戻り引き出しからファイルを取り出すと、すぐに田中統括官の元へ戻ってきた。分厚いファイルから「預託金返還請求事件」と事件名の書かれている判決文のコピーを抜き取る。
「へぇ・・・谷垣君はなかなか几帳面なんだな。」
田中統括官は感心しながら谷垣調査官を見た。
「この事件は、税の事件ではないのですが・・・未分割の遺産から生じた法定果実については、「分割単独債権」として、相続分に応じて、それぞれの相続人が確定的に取得すると判断されています。」
谷垣調査官は説明しながら、判決文の一部を読み上げる。
遺産は、相続人が数人あるときは、相続開始から遺産分割までの間、共同相続人の共有に属するものであるから、この間に遺産である賃貸不動産を使用管理した結果生ずる金銭債権たる賃料債権は、遺産とは別個の財産というべきであって、各共同相続人がその相続分に応じて分割単独債権として確定的に取得するものと解するのが相当である。遺産分割は、相続開始の時にさかのぼってその効力を生ずるものであるが、各共同相続人がその相続分に応じて分割単独債権として確定的に取得した上記賃料債権の帰属は、後にされた遺産分割の影響を受けないものというべきである。
「なるほど、この判決からすると、未分割の遺産から生じる法定果実は、法定相続分に応じて各相続人が申告することになるのか・・・しかし・・・」 田中統括官は傍らにある小六法を手に取った。
「民法909条では、遺産の分割は、相続開始の時にさかのぼってその効力を生ずるとなっているから、常識的に考えると、未分割の状況下での賃料は、その不動産を相続した者に帰属することになると考えるのが妥当だと思うのだが・・・」 田中統括官は小六法をめくりながらつぶやいた。
民法909条(遺産の分割の効力)
遺産の分割は、相続開始の時にさかのぼってその効力を生ずる。ただし、第三者の権利を害することはできない。
すかさず谷垣調査官が発言する。
「ところが民法898条は、相続人が数人あるときは、相続財産は、その共有に属すると規定しています。」
民法898条(共同相続の効力)
相続人が数人あるときは、相続財産は、その共有に属する。
「この共有に属する遺産から生じる法定果実は、遺産とは別個のもので、その相続分に応じて、分割単独債権として確定的に各相続人が取得するもの、すなわち分割単独債権であると、最高裁は判断しているのです。」
谷垣調査官は話し終わると、髪の毛の薄くなった田中統括官の頭を見た。
「・・・しかし、もともと民法が共有に属すると規定する理由は、共同相続人の共有財産として扱わないと後に複雑な法律関係が生じることになるから、便宜的にしたもので、その問題がなければ、むしろその不動産を相続した者を未分割の状況下での法定果実の帰属者とした方が良いと思うのだが・・・」
谷垣調査官は黙って聞いている。
「ところでさっきの、個人課税部門からの質問は?」 田中統括官が尋ねる。
「個人課税部門では、相続人全員に対して、相続分に応じて、不動産所得の更正処分をしようかと・・・もちろん、家賃収入のすべてを申告した相続人に対しては減額の更正処分をするということなのですが・・・」
谷垣調査官の言葉に、田中統括官は頭を大きく左右に振った。
「そんなこと、しなくても良いだろう。家賃収入の計上漏れがなければ、わざわざ税務署が相続人間の配分を調整する必要はないだろう。税務署はそんな暇なところじゃない・・・」
田中統括官の表情から、眠気はすっかり消えていた。
(つづく)
この物語はフィクションであり、登場する人物や団体等は、実在のものとは一切関係ありません。
次回は2016/5/12に公開されます。