〈小説〉
『所得課税第三部門にて。』
【第1話】
「所得税法56条と租税回避」
公認会計士・税理士 八ッ尾 順一
-はじめに-
本連載は、税務署の「所得課税部門」内での出来事を執筆したものであり、所得課税部門が行う税務調査等について、どのような議論がされているのかを中心として、分かりやすく紹介していく。
なお、本連載の内容はフィクションであり、登場する人物や団体等は、実在のものとは一切関係ないことを予めお伝えしておく。
昼休みの税務署内。昼食を終えた中尾統括官は、憂鬱そうな表情で新聞を読んでいる。
7月の人事異動が終わり、これから1年間、新しいスタッフと共に働くことになるのだが、中尾統括官は毎年この時期になると、新学期を迎える1年生のように、ナーバスな気持ちになる。
中尾統括官は今年で57歳。定年まであと3年あるが、所得課税第三部門には昨年の人事異動で配属されたので、今年は2年目である。
「・・・中尾統括官。」
中尾統括官が顔を上げると、浅田調査官が机の前に立っている。
「あの・・・実はちょっと・・・質問が・・・」
浅田調査官は遠慮がちに中尾統括官の顔を覗く。浅田調査官は2ヶ月前に、税務大学校の「専科研修」から帰ってきたばかりである。
「質問・・・?」
中尾統括官は怪訝そうに浅田調査官を見る。
「ええ・・・税理士からの質問なのですが。・・・かまいませんか?」
そう言うと、浅田調査官はメモ用紙をポケットから取り出して、説明を始める。
「子供の土地の上に母親が賃貸マンションを建設したのですが、その場合の地代の支払いについての質問なのです。」
中尾統括官は、黙って聞いている。
「私は、とりあえず、子供に支払った地代は、母親の不動産所得では必要経費にならない・・・と答えたのですが・・・」
浅田調査官は、自信のなさそうな声で言う。
「母親と子供が・・・生計を一にしている、ということであれば、母親の必要経費にならないことになる。それは、所得税法56条の問題だな・・・」
中尾統括官は、机の上に置かれた税務六法を開く。
所得税法第56条(事業から対価を受ける親族がある場合の必要経費の特例)
居住者と生計を一にする配偶者その他の親族がその居住者の営む不動産所得、事業所得又は山林所得を生ずべき事業に従事したことその他の事由により当該事業から対価の支払を受ける場合には、その対価に相当する金額は、その居住者の当該事業に係る不動産所得の金額、事業所得の金額又は山林所得の金額の計算上、必要経費に算入しないものとし、かつ、その親族のその対価に係る各種所得の金額の計算上必要経費に算入されるべき金額は、その居住者の当該事業に係る不動産所得の金額、事業所得の金額又は山林所得の金額の計算上、(※1)必要経費に算入する。この場合において、その親族が支払を受けた対価の額及びその親族のその対価に係る各種所得の金額の計算上必要経費に算入されるべき金額は、(※2)当該各種所得の金額の計算上ないものとみなす。
((※)及び下線:筆者)
中尾統括官は条文を読んで頷いた後、説明する。
「・・・しかし、子供の必要経費・・・例えば、子供の所有している土地の固定資産税は、母親の必要経費になる((※1)の下線)・・・」
「この所得税法56条については、有名な判例が2つありましたね・・・夫・妻弁護士事件(最高裁平16.11.2判決)と妻税理士・夫弁護士事件(最高裁平17.7.5判決)・・・」
浅田調査官は専科研修で学んだときの資料ファイルを開いた。
「妻税理士・夫弁護士事件は、弁護士の夫が、生計を一にしている税理士の妻と顧問税理士契約を締結して、報酬を支払ったのだけど・・・所得税法56条を適用して、夫の必要経費として認めなかった。もっとも、東京地裁(平成15.7.16判決)は、納税者の主張を認めたけれど・・・」
浅田調査官の説明に、中尾調査官は頷く。
「そうだな・・・そういう事件があったことは覚えている・・・」
中尾統括官は、浅田調査官から差し出されたファイルを見る。
「この所得税法56条は、もともと家族間で所得を分割して、租税の負担を軽減するという租税回避を防止する目的で設けられた規定なんだ。ただし・・・この規定そのものが現代の社会に合致するのか・・・そういう批判はあることも知っている。」
中尾統括官は、言葉を選びつつコメントする。
「ところで、先ほどの税理士からの質問なのですが、母親は子供に地代を支払っても母親の必要経費にならない・・・そして、子供は、所得税法56条によれば・・・当該各種所得の金額の計算上ないものとみなす((※2)の下線)・・・とされていることから、子供は申告する必要がないことになります・・・」
浅田調査官の声のトーンが高くなる。
「・・・君は・・・何を言いたいんだい?」
中尾統括官は戸惑いながら尋ねる。
「つまり、子供は母親から地代を貰っても、申告をしなくてもよいということは・・・子供は、その受け取った地代に係る所得について課税されない・・・ということになるのでは・・・そう思うのですが・・・これって、逆に、租税回避になるのでは?」
浅田調査官は税務六法を見ながら言う。
「それは・・・」
中尾統括官は考えをめぐらせている。
「所得税法56条は、母親が子供に支払う地代そのものについて、何ら否定をしていません。ただ、所得税法上、その地代の支払いを母親の必要経費と認めないということを規定しているのです。他人に土地を借りるときには、当然、地代を支払うのだから、子供だからといって(妥当な)地代を支払う行為を禁じることはできない・・・所得税法は、支払を禁じているのではなく、その支払地代を母親の不動産所得を計算する際に、必要経費にしないということだけの規定なのです。」
浅田調査官は早口で一気に説明をする。
中尾統括官は驚いた様子で浅田調査官の説明を聞いている。
「・・・そして、その反射的な処理として、子供は、受け取った地代について何ら申告をする必要がない・・・」
浅田調査官の頬は少し火照っている。
「なるほど・・・逆に、所得税法56条は、納税者に対して、租税回避を助長している・・・ということか・・・」
中尾統括官は、苦笑いする。
「私はそう思うのですが。」
浅田調査官は自信たっぷりに言う。
「完璧な税法を規定することは・・・なかなか難しいな・・・」
中尾統括官は所得税法56条の条文を見ながらつぶやいた。
(つづく)
この物語はフィクションであり、登場する人物や団体等は、実在のものとは一切関係ありません。
「〈小説〉『所得課税第三部門にて。』」は、不定期の掲載となります。